【プロレス】藤原喜明が振り返る、佐山サトルや前田日明らとのスパーリング 新日本の道場にきた道場破りには「すべて勝った」 (4ページ目)
【絶対に負けられなかった"道場破り"との闘い】
藤原とのスパーで、強さと才能を磨いたレスラーたちが新日本の道場伝説を築き上げた。この伝説のなかには、予期せぬ"道場破り"もあった。
昭和50年代、「プロレスこそ最強」を掲げた新日本に対し、柔道、空手、キックボクシングなど、さまざまな格闘技の猛者が突然、道場にやってくることがあった。そういった時、相手を務めたのは藤原だった。
「なんで俺が相手をしたかって? みんな逃げるからだよ。腹が痛い。風邪をひいたってな(苦笑)」
藤原を指名したのは、山本小鉄だった。
「小鉄さんが『藤原、やってみぃ』って言ってな。俺もプレッシャーはあったよ。道場にくるやつは、自信あるからくるわけだろ? みんな強いに決まってんじゃん。だけど、もし負けたらクビだからな......」
藤原と闘う前に、相手には「何があっても新日本プロレスは責任を取りません」という趣旨の誓約書を書かせたという。藤原自身も、道場破りの闘いにおいて決めていたことがあった。
「勝負ってのは、五分五分でやっと勝つんじゃダメなんだ。無事で帰すわけにはいかない。例えば、相手が肘を痛めれば、その痛みは一生覚えているだろ? そこまでやらなきゃダメなんだよ。道場破りとの闘いは、すべて勝ったと思ってる」
負ければ、新日本の「最強伝説」は根底から崩れることになる。藤原は、猪木が掲げた「プロレスこそ最強」を守っていたのだ。
「道場破りとの闘いは何回やったか数えたこともないけど、極めるまでに時間がかかるときもあったよ。チャンスがきた時に、一気にやるだけだった。関節技ってのは骨を折るわけじゃないけど、脱臼させるか筋が伸びるか......そういうやつが多かったな」
道場破りに勝つと、小鉄からボーナスが贈られたという。
「小鉄さんから金一封があってな。20万円くらいもらったよ。こっちは命がけでやったからな。その額が妥当かどうかって? そんなこと聞くなよ(笑)」
(敬称略)
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【プロフィール】
藤原喜明(ふじわら・よしあき)
1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。
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