K-1復帰戦で「青い目のサムライ」アンディ・フグと闘った佐竹雅昭「あの内容が僕の限界だった」
(第14回:K-1休養中、ビートたけしの番組などで活躍 「空手家=食えない」という構図を打破した>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第15回は、長期休養からの復帰戦となったアンディ・フグとの試合について語った。
1996年10月、アンディ・フグ(左)と対戦した佐竹 photo by 日刊スポーツ/アフロこの記事に関連する写真を見る
【フグとの闘いに「燃えなかった」理由】
1995年5月4日のK-1グランプリでジェロム・レ・バンナにKOで敗れたあと、蓄積した脳のダメージの影響で長期休養に入った佐竹。復帰を決断したのは、それから1年5カ月後の1996年10月18日。舞台は横浜アリーナだった。
「『そろそろやらないか』とオファーが来て、ドクターからも許可が出たんで、『もう1回チャレンジしようかな』と思ったんです」
対戦相手は、同年5月に開催されたK-1グランプリで初めて優勝したスイス人の空手家、アンディ・フグだった。10歳で極真空手スイス道場に入門したフグは、23歳で出場した1987年の世界大会で決勝まで進み、当時"最強"とうたわれた松井章圭と激闘を演じた。そこでは敗れたものの、極真の"外国人最強の空手家"として注目を集めた。
その後、佐竹が所属する正道会館に移籍してプロ転向。グローブマッチに挑み、1994年からK-1に参戦した。同年と1995年のグランプリは、ともに1回戦で1ラウンドKO敗け。しかし、リベンジを期した1996年に空手家として初の優勝を成し遂げ、絶大な人気を獲得した。
佐竹とフグは、1993年10月3日に大阪府立体育会館で行なわれた「カラテワールドカップ」で、空手ルールで対戦している。延長戦でも決着がつかず、試し割り判定で佐竹が勝利した。
「ワールドカップでは試し割りまでいって僕が勝ったんですが、彼は極真での実績があって、ものすごく強い選手でした。ただ、正直に言いますと、この時は心の底から燃えられる対戦相手ではなかったことは事実です。何かピンとこなかったんですよ。
彼は極真をやめて正道会館に入ってきたので、同門になってしまったわけです。しかも当初は、大阪の本部道場でスパーリングや練習をして、彼がグローブに慣れようと必死に頑張っているところも見ていました。だから身内みたいな感覚になって、燃えなかったというか......。(ドン・中矢・)ニールセンとやった時のような、『何が何でも倒さなきゃいけない』という感覚にはなれなかったですね」
1 / 3