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K-1復帰戦で「青い目のサムライ」アンディ・フグと闘った佐竹雅昭「あの内容が僕の限界だった」 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

【35歳での急逝に「ショックでした」】

 初のゴールデンタイム中継は、視聴率15.6パーセント(ビデオリサーチ社調べ)と高い数字を記録した。その後のフグはK-1に集中するため、家族をスイスに残して日本に住み、リング上だけでなくテレビ番組やCMなど数多くに出演。"青い目のサムライ"や"鉄人"とも呼ばれ、K-1の人気を牽引した。

 しかし2000年8月24日、急性骨髄性白血病により、東京都内の病院で急逝した。35歳とあまりにも若すぎる死に、ファンだけでなく佐竹も衝撃を受けたという。

「あまりにも若かったので......。何度か闘いましたし、同門でもありましたからショックでした。あらためて彼のことを思い出すと、いい意味でものすごくプライド高い選手でしたね。プロになってから強くなって、金銭面でもドリームを手にしたでしょう。ただ、印象に残っているのは、正道会館に入門してきたあと、身長180cmくらいのヘビー級としては小さい体で、グローブに適応しようと必死だった姿ですね」

 フグとの復帰戦のあと、佐竹は再び定期的にK-1へ参戦することになった。翌年の初戦の相手は、"剛腕"マイク・ベルナルド。当時のK-1は、ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、フグ、ベルナルドが"K-1四天王"と言われ、人気も高かった。そんな四天王の最後のひとり、ベルナルドとの試合は激闘になった。

(第16回:「剛腕」ベルナルドのパンチ力 K-1初のドーム興行でのジャパングランプリは「正直、楽だな」>>)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー

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