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バルセロナ五輪銀の森下広一、旭化成入社3年目で宗茂に言われた「おまえ、下の世代にも女子にも負けているぞ」

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

1992年バルセロナ五輪、韓国の黄永祚(左)とデッドヒートを繰り広げた photo by Kyodo News1992年バルセロナ五輪、韓国の黄永祚(左)とデッドヒートを繰り広げた photo by Kyodo News

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.5
森下広一さん(前編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪で、日本男子マラソン史上2人目となる銀メダルを獲得した森下広一さん。輝かしい栄光を残した一方で、その後の競技生活は苦難の連続で、マラソン出場はわずかに3回、バルセロナが最後となった。

全3回のインタビュー前編では、旭化成に「仕方なく」入社した18歳の頃から、マラソンを本格的に走るようになるまで、その心情の変化について振り返ってもらった。

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【入社してから3年間は何の目標もなかった】

「私は、旭化成は中途採用なんですよ」

 森下広一は、苦笑交じりにそう言った。

 1985年、鳥取県の八頭高校卒業を控えた森下は地元の船岡町(現・八頭町)の町役場への就職を希望していた。ところが、地元開催の国体に向けて前年まで公務員採用を増やしていた反動で、その年は採用枠がなく、「5年待ってほしい」と言われた。どうしようかと途方に暮れていたところ、高校の陸上部の恩師と旭化成の廣島日出国監督が話をして、高校卒業後の4月30日に旭化成に入社することになった。

「(高校を卒業したら)働きたいと思っていたので、大学進学は考えていなかったです。箱根駅伝にも興味がありませんでした。ただ、旭化成に入社したものの、5年経ったら役場に入れるかなと思っていましたし、恩師の先生にも『(旭化成での競技生活が)ダメなら骨を拾ってやる』と言われていたので、競技で何がなんでも結果を出すとか、大きな目標もなかったんです」

 旭化成の陸上部に入った森下は、さっそくそのレベルの高さに面食らった。当時の陸上部は、宗(茂、猛)兄弟のいるマラソン組と、佐藤市雄コーチが指導するトラック&新人組に分かれていた。森下は佐藤コーチの指導を受けていたが、マラソン組の練習が自然と目に入ってきた。

「宗兄弟が引っ張っているんですけど、マラソンの練習がすごくハードで......。『こんな練習できないな』っていうのが正直な印象でした」

 森下は高校3年時の地元国体の少年A1500mで8位、同じく少年A10000mで6位など、トラック種目で結果を出していた。ただ、旭化成入社当初はまだ役場への就職希望が抜けきらず、何を目標にすべきかもいまひとつ定まらなかった。そうした環境のなかで、3年の月日が流れていった。

「入社してからそれまで何の目標もなくやってきたので、強くなるわけがない。それで3年目の秋に、高校の恩師に『そろそろ就職先を探してもらえませんか』と電話したんです。その時、『おまえは(すばらしい環境で)誰もやれないことをやっているんだから、もう少し頑張ってみろ』と言われたんです」

 さらに宗茂からのある言葉によって、あらためて陸上に向き合う決意を固めた。

「当時、入社1、2年目の後輩に負け始めたんです。女子の同期のメンバーとも比べられて、宗茂さんに『おまえ、下の世代にも女子にも負けているぞ』と言われたんです。あらためてそう言われると悔しさがこみ上げてきて。そこから競技に本気で取り組むようになりました」

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著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。

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