バルセロナ五輪銀の森下広一、旭化成入社3年目で宗茂に言われた「おまえ、下の世代にも女子にも負けているぞ」 (3ページ目)
【初マラソンの39km過ぎ、中山竹通に肩を叩かれた】
そして計画どおり、1991年の別府大分毎日マラソンが森下にとってマラソンのデビュー戦になった。このレースには、1988年ソウル五輪マラソン4位の中山竹通(ダイエー)が急遽、出場した。
「スタートした時、中山さんに勝てば人生が変わると思っていました。私にとってラッキーだったのは、このレースから中山さんが最初から飛ばしていくレースではなく、集団についていくスタイルに変わったこと。正直、勝てるとは思っていなかったですけどね」
30km手前で森下は、中山と三村徹(鐘紡)から少し離れ、50mほど差がついた。中山たちがペースを上げたからだったが、森下が自分のペースを守っていると、徐々に前が落ちてきた。30km以上は未知数で自分の体がもつのかという怖さはあったものの、まだ余裕があった。35km過ぎからは中山とマッチレースになったが、39kmあたりで突然、中山に肩を叩かれた。
「中山さんに『このまま行っていいよ』と、言われたんです。『どういうこと?』って思いましたね。中山さんはキツいのか、それとも、これは作戦で『俺はまだ余裕があるよ』ということなのか、いろいろ考えました。でも、『行け』というなら行ってみようと前に出たんです」
中山の前に出てスパートすると、初めて「勝てるかも」と思った。ゴールが徐々に近づくにつれ、勝ちたいという欲が出てきた。最後の力を振り絞って逃げ、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝を果たした。
「ゴールした時は、それまでの初マラソン日本記録が(旭化成の先輩の)米重(修一)さんの2時間12分00秒だったので、同じくらいかなと思いました。でも、8分台が出たので、びっくりでしたね。レースの10日前に20km走をやって60分ちょっとくらいで走っていたんですが、本番は2倍走らんといけんのかって思っていたので、走り終えるまで自信がなかった。タイムを意識せずに中山さんについて走っていたら、自然と(タイムが)ついてきたって感じでした。でも、走り終えてホッとしていましたね」
30歳の中山から23歳の森下に世代交代――。
そう騒がれたが、中山の強さは一緒に走った森下が一番理解していた。ふたりの次のマラソンでの対決は、翌1992年2月の東京国際マラソンとなるが、その前に森下には東京世界陸上の10000mがあった。そこでは28分13秒14で10位という好タイムを残し、いよいよバルセロナ五輪のマラソン代表選考に挑むことになった。
(つづく。文中敬称略)
森下広一(もりした・こういち)/1967年9月5日生まれ、鳥取県出身。八頭高校卒業後に旭化成に入社。宗(茂・猛)兄弟のもとで力をつけ、1991年に初マラソンの別府大分毎日マラソンで、初マラソン日本最高記録(2時間08分53秒)で優勝。翌1992年の東京国際マラソンでも優勝し、バルセロナ五輪の出場権を得ると、その五輪本番では銀メダルを獲得。その後はケガなどで低迷し、再びマラソンを走ることなく1997年に現役引退。1999年にトヨタ自動車九州の監督に就任し、現在まで後進の指導にあたっている。
著者プロフィール
佐藤俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)、「箱根5区」(徳間書店)など著書多数。近著に「箱根2区」(徳間書店)。
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