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バルセロナ五輪銀の森下広一、旭化成入社3年目で宗茂に言われた「おまえ、下の世代にも女子にも負けているぞ」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【先輩の谷口浩美との練習で手に入れた自信】

 そこから3カ月間、ペース走や30km走などを織り交ぜた練習メニューをやり遂げた。苦手な30km走も、最初は途中から歩くなどして1時間55分近くかかっていたが、1時間40分くらいで走りきれるようになった。日々成長し、「妥協しない自分」を感じることができた。

「その3カ月を終えて4年目に入ったある日、(先輩の)谷口浩美さんと16kmの練習をしたんです。それまで(スピードとスタミナの両方を問われる)16kmの練習は全然ダメで走れなかったんですけど、この時は最後まで谷口さんについて走ることができて、苦しさの上にもうひとつかぶせるような練習ができた。脚の状態もよかったので、ようやくこれからトラックで結果が出せると思えました」

 迎えた1990年2月、金栗記念熊日30キロロードレースに出場する際、現役を引退してチームの指導にあたっていた宗兄弟からは、「成功したら次はマラソンに出よう」と言われていた。結果、森下はそのレースで見事優勝し、マラソンに本格的に取り組むことになった。

 翌1991年夏の東京世界陸上はマラソンではなくトラック種目での出場を目指すことに決め、その前の2月の別府大分毎日マラソンで初マラソンを経験し、翌1992年の東京国際マラソンでバルセロナ五輪の出場権を獲得するというアプローチを宗兄弟と確認した。

 日々の練習は、東京世界陸上のマラソンで優勝し、バルセロナ五輪の出場権を獲得することになる谷口と一緒にすることが以前よりも増えた。

「宗さんたちは(1984年)ロサンゼルス五輪に出場した際、練習をやりすぎて失敗した経験を持っていたので、いいところ取りで私と谷口さんに教えてくれたんです。宗兄弟の練習は"鬼練"とも言われていましたが、私たちの時はロスの経験からうまくメリハリをつけてくれていました。レースのスタートラインに立った時に『走りたい!』と思う自分をつくるのがテーマになっていたんです」

 1990年9月には北京アジア大会の10000mで金メダル、5000mで銀メダルを獲得し、スピード面の強化も順調に進んだ。ロードでは宗兄弟の指導を仰ぎ、谷口と切磋琢磨することで強さが磨かれていった。

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