佐竹雅昭が明かす、バンナ戦後のK-1長期休養の真相 ヘビー級での連戦に医師から警告「脳が委縮するかもしれない」
(第12回:サム・グレコ戦で自覚した「脳へのダメージ」の蓄積 その後のキモ戦は「キャリアのピーク」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第13回は、1995年5月から1年5カ月に渡った長期欠場の真相を語った。
1995年のK-1グランプリで、ジェロム・レ・バンナ(右)にパンチを見舞う佐竹雅昭 photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る
【バンナ戦のKO負けは「いろんな意味で限界がきていた」】
1995年3月、第3回「K-1グランプリ」の1回戦で、アメリカの格闘家キモを大激闘の末に破った佐竹は、2カ月後の5月、代々木第一体育館での決勝トーナメントに挑んだ。前年に準優勝を果たしていたため、「今年こそは優勝」と誓って迎えた準々決勝の対戦相手は、フランスのキックボクサー、ジェロム・レ・バンナだった。
身長190cm、体重120kgを誇る剛腕サウスポーは当時22歳で、このK-1グランプリが初参戦。1回戦でムエタイのノックウィー・デービーに判定勝ちを収めていたが、佐竹は当時のバンナについてこう振り返る。
「フランスは、サバットという伝統的な足技中心の格闘技があるので、蹴りが得意な選手かと思ったら、全然違って筋肉ムキムキのパンチが強い選手でしたね」
試合は、体格で佐竹を上回るバンナが1ラウンドから左ストレート、左ローキックを中心に圧力をかけてきた。佐竹はガードを固め、左ミドルなどで応戦するが決め手に欠く。2ラウンドも両者は距離を置いてローキックの差し合いなどで膠着状態が続いた。
迎えた3ラウンドは一転して、激しいパンチの打ち合いで佐竹も右フックを顔面に入れる。しかし、バンナの左ストレートを浴びると、あとずさりしながら一度はこらえたが、最後は崩れ落ちた。苦悶の表情で立ち上がろうとするも試合を止められ、ゴングが鳴った。
K-1制覇の夢は3年連続でついえた。佐竹を破ったバンナは準決勝でマイク・ベルナルドをKOで破り、決勝に進出。ファイナルはピーター・アーツとの対戦となり、アーツがKO勝ちを収めて2連覇を達成した。
佐竹は、バンナ戦では気力も失っていたことを明かす。
「もちろんパンチのダメージもあったんですが、今振り返ると、気持ちが切れたような倒れ方でした。あんな形でKO負けするということは、いろんな意味で限界がきていたということなのかなと思います」
1 / 3