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佐竹雅昭が明かす、バンナ戦後のK-1長期休養の真相 ヘビー級での連戦に医師から警告「脳が委縮するかもしれない」 (3ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

【リング外での闘い】

 佐竹は1993年4月の第1回「K-1グランプリ」から、欠場する前のバンナ戦までの約2年間で14戦も戦っている。1994年3月4日にアーネスト・ホーストにKO負けしたあとなどは、わずか57日後の4月30日にK-1グランプリの1回戦でマイケル・トンプソンと試合を行なっている。

 プロボクシングでは、KO、TKO負けをした選手は、安全面を考えて90日間はマッチメイクが禁止されている。どのスポーツでも、何よりも大切なのは選手の健康。過酷すぎるマッチメイクを強いた当時のK-1は、「スポーツ」としての格闘技ではなかった。

「だから、あんなヘビー級の過酷な試合がつづいたのに、生きててよかったと本当に思います。僕は自分の命を守るために休んだんですが、あの頃は『選手の健康』なんて言ったら、『何を言うてるんや』と怒られる時代でした。

 休むことを決めた時は、自分なりの考えでやっていかないといけないと思いましたよ。いろんな方々にお世話になって、テレビやラジオ出演など芸能の分野でお仕事をいただいていたので、休んでいる間はタレントとして活動させていただきました」

 試合から離れて芸能活動をする佐竹に対し、ファンからは批判の声も上がったという。

「『佐竹は試合に出ず、芸能ばっかりやっている』と批判されました。だけど、反論はできませんでした。本当の理由は黙っとけ、でしたからね。当時は、批判している方々もいつかはわかってくれる、と思って頑張っていました」

 脳のダメージでの欠場で、肉体的、精神的にもさまざまな葛藤を背負うことになったが、佐竹はテレビ、ラジオなどの芸能活動でもリング上と同じように輝いた。ビートたけしがMCを務めるゴールデンタイムの超人気番組でもレギュラーを獲得することになる。

(第14回:K-1休養中、ビートたけしの番組などで活躍 「空手家=食えない」という構図を打破した>>)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー

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