西村修と藤波辰爾「無我」を巡る問題の真相を元東スポ記者が明かす 西村だけが悪者になるのは「一方的な見方」 (4ページ目)
――西村さんが闘病生活に入った昨年4月、私は東京・大塚のお寿司屋さんで、偶然お会いしました。
柴田:そのお寿司屋さんは、僕も行ったことがありますね。大塚は地元とあって、西村さんの行きつけのお店がいくつもあるんです。決して高級店ではないけど、おいしいお店ばかりでした。がんを公表して間もない西村さんを取材したのも大塚でした。無理をしていたんだろうけど、思いのほか元気だった。今思えば、そこから入退院を繰り返す1年がスタートすることになるのですが。
――選手、関係者、地元の人たち......西村さんの交友範囲は広かったんですね。
柴田:西村さんは広くて、深い関係を築き上げていました。プロレスラーも、ベテランから若手選手まで、分け隔てなく付き合っていましたね。
――大塚のお寿司屋さんに、新日本の後輩の大岩陵平選手と食事しているのも、SNSで目にしました。
柴田:大岩のこともかわいがっていましたね。彼は学生時代から、大塚で開催していた "西村会" で何度か見かけたけど、本当は他のプロレス団体に入門しようと考えていたんです。でも、西村さんが「入門するなら業界ナンバーワンの団体にしたほうがいい」と、新日本に入門することを強く勧めたんですよ。のちに大岩本人も、「西村さんのアドバイスで新日本にしました」と話していました。
いろんな選手の面倒を見ていたのは間違いないですね。プロレスラーだけじゃなくて一般の方やファンの方でも同じように接していた。だから、文京区議会の議員(2011年4月にから4期務める)も天職だったと思います。狭い道の整備など、地域の方々のお願いに真摯に耳を傾けていた。地元に根付いた活動に勤しんでいましたよ。
――思い出は尽きませんね。
柴田:そうですね。ちょっと駆け足になりますが、最後にもう少しだけ。
東スポの若手記者が交通事故で急死した時は葬儀に来てくれたんだけど、遺影を見て、小さい声で「違います」とポツリ。違う記者と勘違いしていました。
また、西村さんが最後の試合で着ていたガウンは、遺影の写真でも着ていて一緒に天国に旅立ちましたが、生地から染めた豪華なもので、絹糸で「無我」の字を刺繍したもの。全部で、東京-岡山間の長さにもなる絹を使って、1年以上をかけて丁寧に制作されました。エピソードは、挙げだしたらキリがないですね。
53年で人生の幕を閉じたことは、本人にしても無念だと思う。ギャンブルはやらず、大好きなお酒をいっぱい飲んで、女性にモテた。僕の中には、がん検診を避けている西村さんを、無理やりにでも病院に引っ張って行くべきだったという思いがあって、それは一生消えないでしょうけど......。彼は短く、太く生きた。人生を謳歌して楽しんだ。そう考えて、西村さんの死を受け入れるようにしています。
(敬称略)
【プロフィール】
柴田惣一(しばた・そういち)
1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。
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