【アントニオ猪木 一周忌】佐山聡が明かす最後の会話 「会えて幸せでした」に猪木はただ黙ってうなずいた (3ページ目)
【猪木さんとの最後の会話で伝えたこと】
他にも佐山からは、猪木さんとの練習での思い出が溢れるように出てきた。65歳を迎えた佐山は、その光景を昨日のことのように鮮明に語った。師匠との練習を重ねた日々は、それほど濃密で貴重で大切な記憶なのだろう。
その中で、猪木さんと最後に会った日のことについても明かした。
5年前の2018年。その年の夏、佐山は原因不明の病で体調を悪化させた。複数の病院で診察を受け、翌年1月に「パーキンソン病の疑い」との診断は出たが、当時は正確な病名がわからない状況だった。一方の猪木さんも、心アミロイドーシスという難病を発症していた。
そんな最中、佐山は猪木さんから食事に招かれた。場所は六本木の中華料理店だった。
「僕も病気でしたから、『その日が最後だ』とは思いませんでしたが『猪木さんとは体調が悪いから、近々、もう会えなくなるかもしれない』と頭をよぎりました」
食事が進み会話を重ねる中、佐山は猪木さんにこう伝えた。
「会えて幸せでした。会えてよかったです」
この思いは、あらかじめ伝えようと考えていたわけではなかったという。
「猪木さんと話をするうちに自然と出てきました。あの時、僕は『会えて幸せでした』という思いを、ずっと猪木さんに話しました」
猪木さんは、佐山の言葉に何も言わず黙ってうなずいていたという。それは、2人が道場でスパーリングを重ねた時の光景と同じだった。多くの言葉を重ねずとも、2人にだけわかる世界があった。「アントニオ猪木」と「佐山聡」。師匠と弟子、そして天才同士だからこそ理解し合える境地だった。
「死に目には会えなかったんですが、あの5年前に直接、自分の思いを猪木さんに伝えることができたので、僕の中で思い残すことはありません」
そう語る佐山の声は震えていた。
(第2回:アントニオ猪木が「町でケンカしてこい!」 佐山聡がある弟子への叫びに見た「猪木イズム」の原点>>)
【プロフィール】
佐山聡(さやま・さとる)
1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。
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