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NBA伝説の名選手:ジョン・スタークス ドラフト外から成り上がり「ハート&ソウル」としてニューヨーカーに愛されたタフガイ (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【1994年の明暗とキャリア終盤の成功】

 1993-94シーズンは、スタークスにとってキャリアにおける明暗が同時に訪れた時期でもあった。個人としては初のオールスター選出を果たし、チームではプレーオフで宿敵だったブルズ、ペイサーズを倒してのNBAファイナル進出に貢献した。

 しかし、迎えたヒューストン・ロケッツとの頂上決戦では7試合中5試合で19点以上を記録したが、最終第7戦では18本中2本しかショットを決められず、そのうち3Pは11本すべてミスというパフォーマンスが響き、ニックスは84対90で敗戦。スタークスがNBAファイナルの舞台に立ったのはこの1994年が最初で最後であり、ロケッツとの第7戦は現役を引退したあとも、深い後悔としてスタークスの心のなかに残っているという。

「それを受け入れるのが最も辛い夜だった。今もまだ時々、それについて考えることがある。なぜなら、多くの人が私を頼りにしていたからだ。チームメイト、特にファンベースにおいてだ。彼らは長年にわたってチームとして私たちをとてもサポートしてくれたので、私は彼らのために優勝することを強く望んでいた」

 1994-95シーズンのスタークスは、NBA最多となる217本の3Pショットを成功させたが、プレーオフではミラー擁するペイサーズにカンファレンス準決勝で敗戦。マジソン・スクエア・ガーデンでの第7戦を落としたのを最後に、スタークスを評価していたライリーHCがニックスを去った。

 その後、同じポジションのアラン・ヒューストンが加入したことでスタークスは先発からシックススマン(控えとして出場する立場の選手)へと役割を変えていくことになるが、スタークスは見事にその責任を果たし、1996-97シーズンには平均13.8点を記録。リーグのシックスマン賞を獲得した。

 ニックスの「ハート&ソウル(heart & soul)」として奮闘し続けたスタークスだが、1995年以降のプレーオフではカンファレンス準決勝の壁に阻まれ続けた。1998年のオフにニックスからウォリアーズにトレードされ、ブルズとユタ・ジャズに在籍したあとの2002年に現役引退を決断。NBAチャンピオンになれなかったが、スタークスはドラフト指名外選手から這い上がり、1990年代のニックスを象徴する選手だった。13シーズンにわたるNBAキャリアは、まさにアメリカン・ドリームの体現と言えるだろう。

【Profile】ジョン・スタークス(John Starks)/1965年8月10日生まれ、アメリカ・オクラホマ州出身。1988年ドラフト外。
●NBA所属歴:ゴールデンステイト・ウォリアーズ(1988-89)―ニューヨーク・ニックス(1990-91〜1997-98)―ゴールデンステイト・ウォリアーズ(1998-99〜1999-2000途)―シカゴ・ブルズ(1999-2000)―ユタ・ジャズ(2000-01〜2001-02)
●NBAファイナル出場1回(1993〜94)/シックスマン賞1回(1996-97)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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