NBA伝説の名選手:ジョン・スタークス ドラフト外から成り上がり「ハート&ソウル」としてニューヨーカーに愛されたタフガイ
ユーイングと並び1990年代のニックスの象徴的存在だったスタークス photo by Getty Images
NBAレジェンズ連載48:ジョン・スタークス
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第48回は、1990年代ニューヨーク・ニックスの「Heart & Soul」として、王朝シカゴ・ブルズに挑み続けたジョン・スタークスを紹介する。
【波乱の10代を経てドラフト外でNBAに】
気骨があり、感情豊かで、恐れを知らない闘志----それらすべてを持っていたジョン・スタークスはニューヨーク・ニックスのファンに愛されていた。時には愚か者と思いたくなるような行為をすることもあったが、プレーでファンを魅了することのほうが圧倒的に多かった。
スタークスがバスケットボール選手として成長できたのは、モンティという愛称を持つ兄のヴィンセントとの1対1で、心身両面でタフになれたことが大きい。ソフトなプレーをいっさい許さないモンティに挑み続けたことは、NBAでマイケル・ジョーダンやレジー・ミラーと壮絶な戦いを繰り広げられるようになる礎になったとも言える。
オクラホマ州タルサで生まれ育ったスタークスは、高校時代にバスケットボールをプレーしたのは1年のみ。新しく来たコーチのやり方に納得できずにチームを辞めた。それでも、バスケットボールへの愛情は失っておらず、高校卒業後にロジャーステイト・カレッジに進学。普段の試合では観客席から観戦する状況にいたものの、タクシースクワッド(Taxi Squad)と呼ばれる故障者や出場停止になった選手の代わりの練習生としてチームに参加した。その後、ノーザンオクラホマ・カレッジに転校してプレーする機会を得たのだが、マリファナや窃盗といった悪事を働いて1週間刑務所に入り、退学させられてしまう。
その後、スーパーマーケットで働きながらジュニアカレッジで学んでいたスタークスだが、20歳の時にダラスで行なわれた『ピッグス・ポップオフ』というトーナメントでプレーする機会を得ると、モーゼス・マローンといった現役NBA選手が参加するなかで活躍。スタークスと同じタルサ出身で、のちにNBA選手となるウェイマン・ティスデイルとともにトーナメントのオールスターに選ばれた。当時サウスイースト・オクラホマ・ステイト大の4年生だったデニス・ロッドマンがいるチーム相手に、27点を奪ったことで、その名を知られるようになった。
その活躍はオクラホマ・ステイト大のレナード・ハミルトンコーチ(今季を最後にフロリダ・ステイト大のコーチから引退)の目にも留まり、NCAAディビションIでプレーできる資格は1年しか残っていなかったが、スカラシップ選手(奨学生)としてプレーする機会を得た。そして、1987−88シーズンには平均15.4点、4.7リバウンド、4.6アシストを記録した。
だが、NBAドラフトでは指名外。ルーキーのフリーエージェントとしてゴールデンステイト・ウォリアーズと契約したものの、36試合しか出場できず、1シーズンで放出された。
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著者プロフィール
青木 崇 (あおき・たかし)
1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。