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NBA伝説の名選手:ジョン・スタークス ドラフト外から成り上がり「ハート&ソウル」としてニューヨーカーに愛されたタフガイ (2ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【トライアウトのケガがニックスでの運命を変える】

 1989−90シーズンはNBAでの所属先が見つからず、コンチネンタル・バスケットボール・アソシエーション(CBA)やワールド・バスケットボール・リーグ(WBL)といったマイナーリーグでプレー。シーズン後にニックスのトライアウトに参加した。

 そこでスタークスは、ダンクを叩き込もうとした際にオールスターセンターのパトリック・ユーイングに叩き落とされ、膝を痛めてしまう。ただ、NBAの規定によって、ニックスは負傷したスタークスが12月までに回復しない限り、ニックスは彼をカットできなかった。

 このケガが、スタークスの人生を変えることとなる。

 そうして、1990年12月7日のシカゴ・ブルズ戦でNBAの戦列に復帰したスタークスは、8日のアトランタ・ホークス戦と11日のマイアミ・ヒート戦で2試合連続の20得点を記録するなど、周囲にインパクトを与えた。結局、同シーズンには61試合に出場。平均19分の出場時間で平均7.6得点という数字を残した。

 さらにパット・ライリーがニックスのヘッドコーチ(HC)に就任した翌シーズンは、得点力とディフェンス力を兼備したガードとして信頼を勝ち取り、82試合ベンチスタートながら平均13.9点を記録した。

「ハッスル自体が才能だといつも感じていた。それは単に効果のために思い起こされ、行なわれたものではない。それは彼の本性の一部なんだ」とライリーに評価されたスタークスは、1992−93シーズン中盤からは先発に定着。平均得点も17.5点まで伸ばし、オールディフェンシブ・セカンドチームにも選ばれる活躍を見せた。

 1993年以降、スタークスはいい意味でも悪い意味でもプレーオフで注目を集めた。この年のブルズとのカンファレンス決勝第2戦終盤、ドライブからホーレス・グラントとジョーダンの上から左手で豪快なダンクを叩き込んだシーンは、NBAのハイライト映像にしばしば出てくる。また、ジョーダンとのマッチアップであっても怯むことなく強気なプレーをし続けたことでも、ニックスファンのハートを掴み、愛される選手になっていた。

 一方で、その感情が時にいきすぎる時もあった。同じ年のプレーオフ、インディアナ・ペイサーズとの1回戦第3戦の第3クォーターでは、マッチアップしていたレジー・ミラーとのやりあいのなか、フラストレーションからミラーへ頭突き。血気盛んなスタークスはミラーが得意とする心理戦に負けて、一発退場となった。

 その直後、事の重要性を理解していなかったスタークスに対し、ユーイングは激怒。チームの大黒柱からの指摘に対し、「(自分がしたことは)悪い行動であり、私はチームメイトの非難を受け入れた」と、スタークスは試合後に反省の弁を口にした。

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