【Jリーグ】セレッソ大阪「長居の悲劇」から20年 森島寛晃が「重圧はなかった」と言いきれる理由 (4ページ目)
【最終節は5チームが優勝する可能性】
終盤に足踏みを強いられたのは、セレッソだけではなかった。それ以上に失速したのは、首位に立つガンバだった。
初優勝に向けて突き進んでいたガンバだったが、28節から2連敗を喫すると、31節からまさかの3連敗。22節から守り続けていた首位の座を明け渡すことになったのだ。
この年の優勝争いは、まさにカオスだった。最終節を前に首位に立ったのはセレッソだったが、勝ち点1差でガンバが2位につけ、同勝ち点で並ぶ3位の浦和レッズ、4位の鹿島アントラーズ、5位のジェフユナイテッド千葉の3チームがさらに1ポイント差で追いかける構図となっていた。
つまり、5チームが優勝の可能性を残したまま、最終節を迎えることとなったのだ。
33節にして初めて首位に立ったセレッソは、ついに追われる立場となった。追われる側の重圧がそこにはあったと想像がつく。ところが、森島は首を振って、こう言った。
「僕らには2000年の経験がありましたから」
このシーズンの5年前、セレッソは同じように最終節を前に首位に立ち、ファーストステージの優勝に王手をかけていた。
しかし、長居スタジアムに下位に沈む川崎フロンターレを迎えた一戦は、後半立ち上がりに先制されると、一度は西澤のゴールで追いついたものの、1-1で迎えた延長後半の106分に浦田尚希のVゴールに屈し、マリノスに優勝を譲ることとなった。
「2000年の時は選手もそうですけど、チームとしての経験値があまりにも足りていなかったと思います。でも、その試合を経験したからこそ、2005年の最終節を迎える時はすごくいい雰囲気で入れたと思うんですよね。
結果的には優勝を逃したわけで、経験が生かされたというのもどうかと思いますが、浮き足立って試合に入った2000年とは違って、2005年は勝利を手にするために何をすべきかを理解したうえで、試合に向かうことができました」
あれよあれよと浮上した5年前とは異なり、森島とセレッソは平常心でFC東京との最終決戦に臨んだ。
(文中敬称略/つづく)
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【profile】
森島寛晃(もりしま・ひろあき)
1972年4月30日生まれ、広島県広島市出身。1991年に東海大一高(現・東海大静岡翔洋高)から当時JSL2部ヤンマーディーゼル(1994年〜セレッソ大阪)に入団。プロ2年目には主力として活躍し、1995年にはJリーグ参入初年度でベストイレブンに選出される。2008年に現役を引退するまで移籍することなく「セレッソの象徴」として君臨。引退後はチームのアンバサダーや編成・スカウティングに携わったのち、2018年に株式会社セレッソ大阪の代表取締役社長に就任。2025年4月より会長職。日本代表として1998年と2002年のワールドカップに出場。通算64試合12得点。ポジション=MF。身長168cm。
著者プロフィール
原山裕平 (はらやま・ゆうへい)
スポーツライター。1976年生まれ、静岡県出身。2002年から『週刊サッカーダイジェスト』編集部に所属し、セレッソ大阪、浦和レッズ、サンフレッチェ広島、日本代表などを担当。2015年よりフリーランスに転身。
【図】Jリーグ「歴代最強チーム」フォーメーション
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