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【育将・今西和男】小林伸二「決めつけず、押しつけずに伸ばす」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

「これも今西さんに言って、広島を出してもらいました。ある部分、無理を聞いてもらったところがありますから、恥ずかしいことをしないように、近況報告は欠かさずに結果を出していきました」

 福岡の若手を伸ばすと、今度は大分トリニータからオファーが来た。2002年日韓W杯の開催地として、ゼロからチームを立ち上げて、J1昇格を狙っていた大分は育成の重要性を痛感していたのである。2001年に大分のサテライトの監督として、2年契約で迎えられた。ここで高松大樹、松橋章太という若いFWの指導にあたる。特に高松は、多々良学園高校時代から中国トレセンで注目しており、うれしい再会でもあった。

 小林が担当した大分のサテライトチームは短期間で強くなっていった。J1のチームとやっても負けないのだ。3月11日に始まったサテライトリーグCグループでは初戦のセレッソ大阪に2対2で引き分けると、以降4月15日のガンバ大阪(3対0)、4月22日のヴィッセル神戸(3対0)、5月13日のサンフレッチェ広島(3対2)と、すべて格上のチーム相手にハイスコアを叩きだして3連勝を飾る。

 その直後、小林の人生において2回目の「青天の霹靂(へきれき)」が起こる。夜も深まりつつある午後9時頃、クラブのスタッフから電話が入り、都町の中華料理屋に来て欲しいという。何だろうと駆けつけると溝畑宏、立石敬之、柳田信明、藤原司、小澤正風......当時のトリニータの主だった役職の人間がほとんどいた。

 そこで当時のGMであった溝畑から「明日から、トップチームの監督をやってくれ」と言われるのである。W杯開催を翌年に控えて、J2からJ1への昇格を目指しながら、トップは苦戦をしていた。第11節を終えた段階で6勝5敗、7位(昇格圏は2位)という成績であった。フロントは1999年、2000年と2年連続で3位、わずかの差で昇格を逃してきた石崎信弘監督に3年目を託していたが、5月12日のモンテディオ山形戦の敗戦を受けて解任を決めたのであった。小林にすれば寝耳に水であった。

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