【プロ野球】「肩は消耗品だ」 半世紀前に投手酷使へ警鐘を鳴らした近藤貞雄 明治大進学の鈴木孝政を獲得した伝説の説得術 (2ページ目)
交渉が成立し、中日入団が決まった鈴木孝政氏(中央)と当時ヘッドコーチの近藤貞雄氏(左端)とスカウト陣たち photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【鈴木孝政を射止めた"近藤流スカウト術"】
「そもそも、近藤さんは僕をプロに引っ張ってくれた人ですからね。甲子園も行ってない、名前も知られてない奴を、ドラフトで2番目に指名してくれて。もう明治大に決まってたんですけど、近藤さんが千葉の家まで来て、親父を説得して」
1972年のドラフトは<指名する順位の抽選>から始まり、中日は指名順位2番目になった。球団の方針は、高校生なら目玉の"ジャンボ仲根"を1位で獲ること。同年のセンバツ優勝投手で身長193センチの大型右腕、日大櫻丘高の仲根正広である。指名順位1番目の大洋(現・DeNA)は法政大の強打者、長崎慶一を指名したから、中日が仲根の交渉権を得られるはずだった。
ところが「2番目」、近藤が独断で鈴木を指名した。本来コーチは会議に出ないが、ハワイに帰郷中の与那嶺の代理で近藤が出席していた。翻意した理由は、スカウトからの報告。「仲根は投手として大成できなくても、体格的に打者として期待できる」との言葉に疑問を感じ、駒不足の投手陣に必要なのは「とにかくボールが速い」逸材と考え、指名に踏みきった。
「3回目の交渉で近藤さんが来たんですけど、まず成東高校へ来て。投げている姿を見るってことで。もう野球部は引退していたんですが、近藤さんのために投げました。トレンチコートを着て、サングラスして、マフィアみたいな(笑)。僕は知らないですから、近藤さんがどういう人か。いや、ふつうじゃなかったです」
ピッチングの披露を終え、帰宅したその日の夜。近藤をはじめ中日球団関係者と新聞各社が、黒塗りのハイヤー7台でやって来た。鈴木家は父と兄のほか親戚も集まり、成東高監督の松戸健も同席した。
「襖を全部外してね。交渉というより、まるで宴会ですよ。親父なんてすっかり浮かれちゃってね。近藤さんがずっとしゃべっているんです。もちろんスカウトの方もいましたけど、話すのは近藤さんひとり。最初に『君を気に入ったから指名させてもらいました』と言って、そのあと延々とプロの厳しさについて話すんですよ。『練習しなければクビになる』とかね。みんな、ただうなずいて聞いているだけ。
そうかと思えば、今度はプロ野球界を持ち上げたり、逆に厳しく批判したりする。その話術が本当にうまい。話し上手というか、わかりやすいというか、とにかく思ったことをはっきり言う人なんです、近藤さんは。それですっかり親父が心をつかまれてしまった。『わかりました。ドラゴンズさんにお世話になります』って、一発で決まっちゃったんです。 『えっ? ドラゴンズに行くのは親父じゃなくて、オレなんだけどな......』と思いながら聞いていましたよ(笑)」
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