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「おまえに150キロは出せない」から始まった覚醒 澤村拓一を変えた叱責と中央大ブルペン

  • 安倍昌彦●文 text by Abe Masahiko

流しのブルペンキャッチャー回顧録
第1回 澤村拓一(元巨人ほか)後編

 中央大4年生になって、澤村拓一はチームの副主将とピッチャー・リーダーの役を兼任していた。

「監督が言うには、自分のピッチングには、怒りたい瞬間が1試合のなかで2、3度あるらしいんです」

中央大からドラフト1位で巨人に入団し、1年目に11勝を挙げ新人王に輝いた澤村拓一 photo by Koike Yoshihiro中央大からドラフト1位で巨人に入団し、1年目に11勝を挙げ新人王に輝いた澤村拓一 photo by Koike Yoshihiroこの記事に関連する写真を見る

【叱られて、けなされてここまでやってきた】

 当時の中央大を率いていたのは高橋善正監督。中央大から東映、巨人で活躍した右サイドハンドの熱投派だ。新人王に、5年目の1971年には完全試合も達成するなどプロ通算60勝。現役引退後は、いくつもの球団でピッチングコーチを務めるなど、硬派の野球人と言われている。

「入学してすぐの頃に、高橋監督から『おまえには150キロは出せない』って言われたんです。その頃の自分は、真っすぐだけのピッチャーだったんで、もう悔しくて、悔しくて......」

 こいつは、褒めたらつけ上がる──。百戦錬磨の高橋監督には、澤村の心の幼さが手に取るようにわかったのだろう。澤村は笑いながら続ける。

「叱られて、けなされて、ここまでやってきました。自分はそうやってがんばるタイプなんで。高校の頃を思い出すと、やっぱり、なあなあでした。それを気づかせてくれたのは監督なんだと思います。言葉のウラに愛情があるっていうか......。きついこと言われても、監督の言葉だと素直に聞けるんです」

 高橋監督との出会いが、野球に対する考え方も、人生観も変えてくれたと語る。

「何かを犠牲にしても、最優先で野球と取り組む姿勢を教わりました。今までの自分なら考えられなかった。親のスネをかじって野球させてもらってる分際で、ふつうの学生より絶対お金もかかっているんだし......」

 親孝行。そういう言葉も、抵抗なく口に出せるようになったともいう。

「可能性がある以上は、上(プロ)を目指すべきだ。それぐらい頑張っても、行く価値のある世界だよ」

 高橋監督がかけてくれたこの言葉が支えとなり、学生球界トップの存在としてプロを目指す自分がいる。そんな「自己分析」をしてくれた時の澤村は、マウンドに仁王立ちしている時の「怖い顔」になっていた。

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著者プロフィール

  • 安倍昌彦

    安倍昌彦 (あべ・まさひこ)

    1955年、宮城県生まれ。早稲田大学高等学院野球部から、早稲田大学でも野球部に所属。雑誌『野球小僧』で「流しのブルペンキャッチャー」としてドラフト候補投手のボールを受ける活動を始める。著書に『スカウト』(日刊スポーツ出版社)『流しのブルペンキャッチャーの旅』(白夜書房)『若者が育つということ 監督と大学野球』(日刊スポーツ出版社)など。

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