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【プロ野球】都立高出身から1億円プレーヤーとなった秋吉亮が明かす「ブレずに貫いたサイドスローの哲学」

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

秋吉亮インタビュー(前編)

 都立高から大学、社会人を経てプロ野球へ──。ヤクルトのリリーバーとして2015年のリーグ制覇に貢献し、侍ジャパンのメンバーとして第4回WBCにも出場した秋吉亮が、自身の野球人生を語る。高校入学後に本格的に投手を始め、高津臣吾氏や潮崎哲也氏から学んだ投球術、そしてプロ3年目で到達した1億円プレーヤー。その裏にあった努力と信念とは?

2015年にリーグ最多の74試合に登板し優勝に貢献した秋吉亮氏 photo by Sankei Visual2015年にリーグ最多の74試合に登板し優勝に貢献した秋吉亮氏 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

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── 野球を始めたきっかけは?

秋吉 通っていた幼稚園のバスの運転手さんが野球のクラブチームの代表で、小学校1年生から野球を始めました。中学に進学すると、平日は公立中学の軟式野球部、週末は軟式クラブチームでプレーしていました。

── 高校進学の際、都立の足立新田高を選んだ理由はなんですか?

秋吉 僕自身、当時はレベルの高い選手ではなかったですし、実家の近くで野球をやれる高校を探しました。クラブチームに足立新田に行った先輩がいて、いろいろと野球部のことを聞きました。

── 高校に入ってから投手を始め、またサイドスローになったきっかけはなんだったのですか。

秋吉 小学校時代は野手、中学時代は二塁までノーバウンドで届かない捕手でした。高校1年秋に畠中陽一監督(当時)から投手、それもサイドスローを勧められました。野球人生において、これがほんとに大きかった。いきなりサイドスローで、オーバースローで投球練習をしたことは一度もありませんでした。高津臣吾投手(元ヤクルトなど)、潮崎哲也投手(元西武)のシンカー、林昌勇投手(元ヤクルト)のストレートを参考にしました。

── 秋吉さんの投球フォームは"でんでん太鼓"をイメージしたものだと聞いたことがありますが、その理由は?

秋吉 高校、大学、社会人、プロと、どのカテゴリーでも「左腕を左胸でたたみ、右腕を出してこい」と言われつづけてきました。しかし、直そうという気はなく、自分としては左腕を回して引っ張ることによって投げるほうが、右腕が出てくるというイメージでした。

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