松原聖弥は恩師の言葉を糧にプロ野球選手となった 仙台育英ではベンチ外も経験し陸上部に転部 (3ページ目)
「キャッチボール中に後ろに人が立つと『うっ』と止まって、投げられなくなってしまうんです。それからもその感覚が抜けなくて、どんどんイップスの沼にはまっていきました」
イップスとは、今まで当たり前のようにできていた動作が、何らかの原因が元でできなくなることを指す。野球界ではスローイング動作でイップスを発症する選手が多く、才能豊かな選手が競技人生を断たれるケースも珍しくない。
松原とほぼ同時期に、小杉もイップスを発症している。小杉は「イップス同士のキャッチボールなので気は楽でした」と語り、松原は「僕のほうがひどかった」と笑う。今となっては笑い話にできるが、当時は深刻だった。
【センスで乗りきった太鼓叩き】
高校2年生になると、今まで見たこともないような天才打者が入学してきた。上林誠知(現・中日)である。松原は当時の上林について、こう語った。
「上林は中学時代から有名だったんですけど、入学してきてバッティング練習から格が違うんです。『すげぇのが入ってきたな』と思いましたよ。守備もうまいし、肩も強い。それに、誰よりも練習していましたから」
打撃センスにかけては、松原も決して負けてはいなかったのではないか。そんな疑問を監督だった佐々木にぶつけてみると、一笑に付された。
「自分の世界があって、誰が何と言おうとやり抜くのが上林で、いつもフラフラしてるのが松原。そこはちょっと違うかな」
恩師の言葉を本人に伝えると、松原は「そのとおりです」と深くうなずいた。
送球イップスをきっかけに守備への自信を失い、引きずられるように打撃面も落ち込んでいった。高校2年秋はなんとか二塁手として先発出場したものの、松原のエラーもあってチームは敗退する。
高校最後の夏、松原はベンチ入りメンバーの当落線上にいた。だが、監督の佐々木が松原に代わって選んだのは、1学年下の熊谷敬宥(現・阪神)だった。
「当時の熊谷は守備だけの人でした。松原は結局イップスが治らなくて、『大事な時に松原のところに飛んだら......』というのがネックになりましたね」
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