検索

近鉄→阪神→広島でプロ通算282試合に登板 左キラーとして活躍した西川慎一が語るベストピッチと経営者になった今 (3ページ目)

  • 元永知宏●文 text by Motonaga Tomohiro

【プロ時代のベストピッチは?】

── 中学時代に帰宅部だったのに、ドラフト2位指名を受けてプロ野球選手なり、37歳までプレーした西川さんは、プロ野球では異色の存在です。もう一度戻れるとしたらどんな野球人生を送りたいですか。

西川 野球の強い高校でやっていればどうなっていたのかなという思いはあります。もっと早くプロ野球に入れて、長く現役を続けられたかもしれませんね。でも、高校時代は部活が楽しかったんですよ。16時30分くらいから練習を始めて19時には終わり。厳しいことはせず、好きことばかりやっていたので、毎日が楽しかった(笑)。練習後は、徒歩3分で家に着いて、のんびり過ごしていました。

── 11年間プレーしたプロ野球で282試合に登板しました。そのなかで印象に残るバッターは誰ですか。

西川 私は左投げだったので、すばらしい左バッターと対戦することができました。最後のバッターは立浪でしたし、高橋由伸(元巨人)にサヨナラホームランを打たれたこともあります。岩村明憲(元ヤクルトほか)は、1本ホームランを打たれた以外は抑えました。とくに印象に残っているのはイチロー、松井秀喜(元巨人ほか)、高橋由伸の3人ですね。そういう選手と対戦できたことは財産になっています。

── ベストピッチングを選ぶなら?

西川 阪神に移籍した年に松井を3球三振で打ちとった試合ですね。東京ドームで、インコース、インコースを2球続けて攻めて、最後にアウトコースで見逃し三振。あの時の自分のピッチングは今でも頭のなかにあります。


西川慎一(にしかわ・しんいち)/1967年2月26日、愛媛県生まれ。大洲農業高からNTT四国を経て、93年ドラフト2位(逆指名)で近鉄に入団。中継ぎの柱として、97年は51試合、98年にはチーム最多の61試合に登板した。2000年シーズン途中に阪神にトレード。02年に自由契約となり、広島にテスト入団を果たしたが成績を残せず、04年シーズン後に退団。引退後は実家の家業を継ぎ、現在は経営者として多忙な日々を送っている

 『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』

昭和のプロ野球では年俸1000万円がスーパースターの証だった。それが3000万円になり、1億に上がっていき、現在では、5億円以上の年俸を稼ぐプロ野球選手がいる。 

 しかし、プロ野球選手には寿命がある。どんなすばらしいスターも衰えとは無縁ではない。能力が年俸に見合わないと判断されればユニフォームを脱ぐことになる。そのときには当然、年俸はゼロになる。プロ野球以上に稼げる世界などどこにもない。 

 本企画ではプロ野球で「天国と地獄」を経験した元プロ野球選手に登場してもらい、お金にまつわる様々な話を徹底的に聞いていく。 

 たとえば……契約金はどこへ消えるのか? 「グラウンドに銭が落ちている」は本当か? なぜ大金は身につかないのか? 誰も教えてくれない税金の怖さ、成績不振でも年俸を下げない方法、絶対に認められない必要経費、誰もが行きたいあの球団、そして、お金よりも大切なものは何か? 

 現役を引退し、さまざまな仕事を経験したからこそ語ることができるプロ野球のお金の話──彼らの笑える話、泣ける話、ためになる話を1冊に!

購入はこちら>>

フォトギャラリーを見る

3 / 3

関連記事

このページのトップに戻る