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近鉄→阪神→広島でプロ通算282試合に登板 左キラーとして活躍した西川慎一が語るベストピッチと経営者になった今 (2ページ目)

  • 元永知宏●文 text by Motonaga Tomohiro

── しかし、野村監督は2001年限りで更迭されました。後任の星野仙一監督が指揮をとるようになってから登板数が減り、2002年は5試合の登板で防御率14.73。西川さんは戦力外通告を受けました。

西川 その後、テストを受けて広島に入団することになりました。2003年はギックリ腰になって1カ月ほど戦列を離れましたが、それでも43試合に投げました(防御率は7.15)。2004年、中日ドラゴンズ戦の延長11回にマウンドに上がって、立浪和義(現・中日監督)にサヨナラヒットを打たれたのが最後の登板になりました。広島に入った時に「1年目は使ってやるけど、2年目はないよ」と言われましたが、実際にそうなりましたね。

【実家の家業を継いで経営者に】

── そのシーズン限りで再び、戦力外になりました。

西川 現役最後の年は、二軍で145キロくらいのボールを投げていたんですけどね。その後は1年間、ひとりでトレーニングを積みました。でも、ユニホームを着ることはできませんでした。もし使ってくれる球団があればと思っていたんですけど。

── 引退後のセカンドキャリアとして選んだ仕事は何ですか。

西川 私の出身地である愛媛県大洲市で、実家の事業を継ぐことに。今は、お食事処「にし川」、ホテル「ウエストリバー」を経営しています。地元のみなさんは私の名前を知ってくれていたので、助かりました。

── 未経験の仕事でしたが、戸惑いはありませんでしたか。

西川 それまでプロ野球の世界にいて、見られることはあっても、直接ファンの方と接することはほとんどありませんでした。この仕事を始めてから、お客さまとの会話に気を配るようになりました。和食のお店なのでご年配の方が多く、みなさんに助けていただいています。

── 1泊100万円で宿泊できると話題の大洲城がある大洲市は、「伊予の小京都」と呼ばれる観光地です。日本の三大鵜飼いに数えられる「鵜飼い」でもよく知られています。しかし、2017年に西日本豪雨に襲われ、2020年にはコロナ禍で大打撃を受けましたね。

西川 西日本豪雨で、大洲市は大変な被害にあいました。コロナの影響で観光のお客さまも宴会も減って大変でしたが、今年になってやっと上向いてきましたね。5、6年ほど前から性根を入れ直して、経営に取り組んでいます。

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