「お前、遊んでんのか?」根本陸夫は高橋直樹が公園にいることを知っていた (2ページ目)
「それまで疲れ切っていたから、変な話、前の年にケガして休んだのがよかったのかな。プロはね、体調がよくて、気持ちが乗ったときというのは大きな仕事ができるんですよ。ちょっとアクシデントがあると、なかなかね。
でも結局、ノーヒットノーランもコントロールのよさですよ。ストライクからボールにしたり、反対にボールからストライクにしたり、そんなことができましたから。コントロールは他の人よりもよかったですからね」
そのコントロールのよさで、高橋さんは安定して勝てる投手になっていく。球団が日本ハムに身売りされたあとの74年こそ9勝に終わるも、75年からの3年間は17勝、13勝、17勝。79年には20勝を挙げて、シーズン最多無四球試合11というパ・リーグ記録を樹立。完全無欠のエースになっていた。
「でも、13勝した年から監督になった大沢(啓二)さんと合わなくてね。大沢さんは南海時代、『親分』と呼ばれた鶴岡一人さんのもとで野球をやっていて、エースといえば杉浦忠さんなんです。『杉浦さんは毎試合ベンチに入ってリリーフもやった』と言われたけど、僕にはそこまでの体力はないし投げるボールも違う。それでギクシャクしちゃったんですね」
80年、高橋さんにとっては日本鋼管の後輩に当たる木田勇が新入団し、いきなり22勝を挙げた。周りの目がすべて新エース・木田に向けられるなかで10勝に終わり、35歳になっていた高橋さんは、球団から「年俸の高いベテラン」と見られ、トレード要員になっていた。そのなかで79年、80年と広島の2年連続日本一に大きく貢献した江夏豊にも放出の話が出ていた。
「大沢さんは抑えとして江夏がほしかったわけです。そこに『広島が江夏を出す』という話があって名乗りを挙げた。で、大沢さんが広島へ行って直談判したら、監督の古葉(竹識)さんから『高橋直樹を譲ってください』と言われたらしい。でも、僕は広島に行く気はない。『オレは行かない』って何度も言ってたんです。『行くならもう、辞めますよ』という感じで」
そんな状況下、高橋さんはオーナーの大社義規(おおこそ よしのり)が持つマンションの一室に呼ばれ、「お前はうちにとって必要だから出さない」と言われた。同席した大沢からも「キミを出そうとしたのは言葉の行き違い。江夏君を獲れたらいいと思っていたけど、キミを出すとは言ってないから」と言われた。
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