関根潤三の指示でスイッチヒッターに挑戦した高木豊。最初は乗り気も、ある打席で「右打ちは必要ない」と考え直した
高木豊が語るスーパーカートリオとスイッチヒッター転向秘話 後編
(前編:スーパーカートリオの秘話。「帰塁は罰金」で走りまくって生まれた、加藤博一や屋鋪要との絆>>)
かつて、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)で"俊足巧打"の内野手として活躍した高木豊氏は、プロ入り3年目の1983年にスイッチヒッターに挑戦。ともに「スーパーカートリオ」を形成した加藤博一、屋鋪要もスイッチヒッターで、一時期は3人のスイッチヒッターが共存する状態になるも、高木氏は短期間のうちに左打ちに戻している。なぜ早々に断念することになったのか、高木氏に理由を聞いた。
左打者としてプロ通算1716安打を放った高木氏だが、スイッチヒッターに挑戦した過去もこの記事に関連する写真を見る***
――スイッチヒッターに挑戦したきっかけは何だったのですか?
高木豊(以下:高木) プロ入り2年目の秋のキャンプで、当時の関根潤三監督から「おまえ、右で打てないのか?」と聞かれたので、「幼い頃に右で打ったこともあります」と答えたんです。そうしたら、「ちょっと右でも打ってみろ」と言われたのがきっかけです。
――関根監督にはどんな意図があったんでしょうか。
高木 加藤(博一)さんも屋鋪(要)もスイッチヒッターだったので、僕も両方の打席で打てるようになれば、1番から3番までがスイッチヒッターという打線が組めますよね。それは、当時の広島を理想としていたんだと思います。関根監督は広島でコーチをされていましたし、高橋慶彦さんや山崎隆造さんといったスイッチヒッターの活躍もあって強かったですから。「おまえの経験として、トライしてみてもいいんじゃないか」と言われました。
――スイッチヒッターを勧められて、前向きに取り組めましたか?
高木 他のスポーツでもそうだと思いますが、野球選手は反復練習が多い。そこに新しい刺激がひとつ加わると新鮮ですし、気持ちは前向きでした。ただ、「右打ちを練習する時間を左打ちに充てたら、左でもっと打てるようになるだろうな」ともずっと思っていました。
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