板東英二が驚愕した杉浦忠の剛速球。ルーキー江藤慎一は弾丸ライナーで本塁打にした (4ページ目)
ケガを押してまで加わった肝心のポジション争いはどうであったか。中日は前シーズンの終了をもって初代ミスタードラゴンズである強打の西沢道夫が引退しており、ファーストのポジションが空いていた。江藤はこれに目をつけて、キャンプで自らファーストミットを差し出し、杉下監督に「自分はノンプロ時代に一塁もやっていました。やらせて下さい」と経験がないにも関わらず売り込み、ポジションを掴んだと、多くの野球書籍が伝えている。
ところが、実際はそうではなかったようだ。私は当時の監督、杉下茂に直接、江藤が捕手からコンバートされた経緯を聞いた。意外な答えが返ってきた。
「それは下手くそだったから」
言っている意味が理解できずに受話器の向こうに問い返した。「何がですか?」
「いやもう、キャッチャーとして。江藤にはピッチャー全員から、クレームがつきました。ひでえキャッチングでね。伊奈(努)とか中山(俊丈)とか、もうブルペンでピッチングするのに、江藤に受けてもらうことになると、勘弁してくれって、言うんですよ」
齢95歳を過ぎての杉下の明晰な記憶力に舌を巻いた。60年以上前の湯之元キャンプのことを選手名、年齢まで明確に並べたてて理路整然と語るのである。
「キャッチャーを教える人がいなかったんだろうな。チームは若返りの方針で27歳の本多逸郎が一番の年上で、ピッチャーはもっと若かったから、あまり厳しいことを言うベテランはいなかったが、それでも不満が出たのでファーストに回しました。あれでは到底、リーグ屈指の吉沢(岳男)は抜けません。もちろんバッティングがよいのはわかってきたので、それを活かすというのはありました。パワーもあってとにかく頑丈な体をしていましたから」
後に日鉄二瀬時代の監督・濃人渉(のうにん・わたる)が中日の監督に就任するとその名捕手吉沢を放出し江藤を捕手に戻してしまうが、それはまた先の話。
魔球フォークボールを操ってスーパーエースの座にいた杉下は前年に現役を引退してこの年から監督になっていたが、まだ33歳だった。現在の大野雄大と同じ年齢である。前年度は11勝を挙げており、防御率も1点台という好成績を記録、本来ならば、大黒柱のままであろう。肘や肩に慢性的な痛みはあったが、本人もまだ投げたいと希望は強かった。しかし、球団は「もう30歳以上はチームに置かない」の一点張りで実質的に現役としてのユニフォームを脱がされた。
杉下の述懐どおり、最年長は27歳の外野手本多逸郎となった。これも昭和の球団経営なのか、個々のパフォーマンスに注目せずに一律年齢のみで評価をするという乱暴なチーム編成であった。一方で現場を預かる杉下は、江藤に捕手失格の烙印を押しながら、打撃を伸ばす配慮を厭わなかったことからも見てとれるように、選手を枠に嵌めずに可能性を信じる公正性を備えていた。
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