板東英二が驚愕した杉浦忠の剛速球。ルーキー江藤慎一は弾丸ライナーで本塁打にした (5ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 指揮官であれば当然のことであるが、フラットに選手を見ることの大切さをあらためて噛みしめていたのは、現役時代1951年の強烈な体験にあった。この年、セントラル・リーグは日米野球交流の一環として、ジョー・ディマジオを輩出した米国独立リーグ3Aのチーム、サンフランシスコ・シールズの春季キャンプに杉下を川上哲治(巨人)、藤村冨美男(大阪タイガース)、小鶴誠(松竹ロビンス)とともに派遣していた。

 渡米した杉下は、それを投げられると「打者の練習にならないから」という理由から、フォークボールを封印されながら、速球一本でシカゴカブスを2安打完封するなど、大活躍を見せた。

 これを見たシールズのレフティ・オドール監督は、中日での年俸を保障した上でさらに1万ドル(=365万円)を提供するというオファーを出してきた。サラリーマンの初任給が3000円の時代である。天文学的な数字であるが、杉下はこれを断った。最初の子どもが生まれる直前であったということや、父と慕う日本の天知俊一監督に対する信義など、その理由は多々あったが、大きな判断材料となったのは、米国社会における黒人差別を目の当たりにしてしまったことである。

「私が行った時は、デパートでもレストランでも黒人の人たちが入れないんですから。街中でまず黒人を見かけないのです。野球も同様で同じチームでクリーンナップを打っている選手でも白人の選手とは同じホテルに泊まれないのです。そんなところに残ってプレーしろと言われても嫌ですよ」

 杉下が投げていて、黒人選手が打席に立つと、バッテリーを組む白人のキャッチャーは必ず初球に「頭に放れ」というサインを出してきた。腰を引かせるという意識であろうが、彼らが黒人を同じ野球を愛する人間として見ていないことが伝わってきた。杉下は何度サインを出されようとも絶対にブラッシュボールを投げずにストライクゾーンで抑えた。

 太平洋戦争中、杉下は兄の安佑を特攻のひとつである桜花で失っている。人間魚雷が回天ならば、特攻のなかでも特殊な桜花は大型爆弾に翼をつけただけの「人間爆弾」で、体当たりを厳命された操縦士は確実に死に至らしめられるものであった。兄の出撃は事前に作戦が傍受されており、敵艦に体当たりする前に米軍機に撃ち落されていた。杉下自身も出征しており、玉音放送を中国大陸の紅港で聞き、呉淞(ウースン)の捕虜収容所に入れられている。

 アメリカに対しては複雑な思いが交錯していたが、それでもイメージは野球の国であり、自由の国であった。

 しかし、実際に西海岸の地に足を踏み入れてみると、露骨な差別が歴然と存在するアメリカの暗部に直面した。そして杉下は黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの苦労に思いを馳せた。「彼がどれだけ大変な思いをしてプレーしていたのかと」ロビンソンがメジャーデビューする際、所属のドジャース以外のチームはすべてこれに反対しており、ともにプレーすることを拒んで移籍していった選手もいた。それでも彼は常に紳士的に振る舞い、結果(新人王)を出してパイオニアとなっていった。

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