板東英二が驚愕した杉浦忠の剛速球。ルーキー江藤慎一は弾丸ライナーで本塁打にした (3ページ目)
江藤は実家のある熊本からの乗車であったが、すでに両親と3人の弟を中日の本拠地である名古屋に呼び寄せる準備をしていた。バット一本で家族全員を養う覚悟は高校時代からしていた。
湯之元キャンプが始まった。この年、中日は若返りを図り、12人もの新人選手を入団させていた。高校生は甲子園四羽カラスと言われた板東英二、河村保彦(多治見工)、伊藤竜彦(中京商)、成田秀秋(熊本工)を含む9人、大学生は立教4連覇の頭脳と言われた捕手の片岡宏雄、社会人は大昭和製紙のスラッガー横山昌弘、そして江藤だった。12球団随一の大型補強と言われた。
このキャンプで江藤はその身体能力で注目を集めた。当時の中日には鈴木恕夫(すずき・ひろお)という陸上競技で400mを専門にしていたトレーニングコーチ(後に球団代表)がいた。この鈴木が作成する練習メニューはあまりにハードで完遂する者がいなかったが、ただひとり江藤だけが最後までやり抜いた。捕手でありながら、誰もが途中でバタバタと棄権をするサバイバル長距離レースまで走りきったのである。
長丁場のキャンプでは、時として負傷することもあるが、それも乗り越えた。
湯之元のグランド脇にはトロッコがあり、選手にはその線路に足を差し入れて腹筋をするという練習が課せられた。下はコンクリートなので腰が着地すると、すれて血が滲む。手抜きをしない江藤は、とうとう臀部に5センチほどの大きな腫れ物をこしらえてしまった。
トレーナーの足木敏郎はひと目見て練習を休んで医師の診察を受けるように告げたが、聞き入れなかった。「ぜったい練習には出ます」ここで休めば、アピールする機会を失う。「化膿したらどうするんだ。患部がそんなに大きかったら、下着が当たるだけでも痛いだろう」「大丈夫ですよ。皆が打ったり、走ったりしているのにこれくらいで休めません」大事に至らせてはいけないという足木との間で押し問答が続いた。
「あっ!」江藤は突然、自分で患部に穴を空けて膿を絞り出してしまった。
唖然とするトレーナーを前に「これでOKです」と絆創膏を張って部屋を出て行ってしまった。「破傷風にでもなったら大変だ」心配になった足木が練習を見に行くと、何事もなかったかのように泥にまみれていた。そして本当にそのまま治してしまった。
特異な存在感を示したのは、グラウンドの上だけではなかった。江藤は自分の持ち物に「熊本太郎」と大書していた。太郎には最大のもの、最高のものという意味があり、坂東(=関東)最大の河川である利根川を坂東太郎と言うように名詞や地名と連結してそれを形容する。(ちなみに洪水の多い日本三大暴れ川として、坂東太郎=利根川、筑紫次郎=筑後川、四国三郎=吉野川が列挙される)
江藤は、自分は熊本最高の選手であるという自負からであったのか、熊本太郎との異名をあらゆる道具に記していた。(言うまでもなく熊本は川上哲治、前田智徳など、天才スラッガーの特産地である)
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