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板東英二が驚愕した杉浦忠の剛速球。ルーキー江藤慎一は弾丸ライナーで本塁打にした (7ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 そしてそれが実を結ぶのは、早くもシーズン前にやってきた。

 1959年(昭和34年)3月15日、中日はチームの大功労者である西沢道夫の引退試合をホーム中日球場で開催した。対戦相手は南海ホークス。人情派で知られる鶴岡一人監督はこの西沢の花道にエース杉浦忠を先発させ、ベストメンバーを組んできた。

 対して中日の先発は板東。西沢の引退と絡めて新旧交代を演出したい球団は、甲子園を沸かせた新人の初登板を早い段階からリリースしていた。黄金ルーキーの予告登板は奏功し、スタンドは満員で埋まった。

 引退試合の入場料収入は餞別として当該選手に贈られる。裏方にまで気を遣う人柄のよさで知られた西沢に向けてあたたかな舞台が整ったが、杉浦もまた最大の礼儀として全力で立ち向かってきた。この年にキャリアハイの38勝を上げて、南海日本一に貢献することになる下手投げのエースは3番で先発した西沢を三振に打ち取る。

 対して、板東はトップバッターの広瀬叔功に左中間を破られると、以降も打ち込まれ、3回で5失点を喫する。

 この時、3回裏に9番打者としてバッターバックスに立った板東は、歴然としたプロとの実力の差を否が応でも突きつけられた。杉浦が繰り出すボールが速すぎてまったく見えないのだ。ストレート、カーブ、そしてストレート。甲子園では主軸を打ち、投打に渡る超高校級と言われた自分がバットを振ることすらできずに、たった3球で見逃し三振に切ってとられた。2球目のカーブのスピードは明らかに自分の直球よりも速かった。それでも杉浦はまだ調整段階だという。小柄な自分はもうプロで食っていくのに限界がある。ここでもう板東は自身を見切った。

「体が小さいというハンデがあるうえに、杉浦のあの球だ。あんな球、今後どんなに練習を積んだところで投げられるはずがない。『野球だけじゃとても一生、食っていかれん。なにか別の道を見つけないとあかん』私は固く固く決心した。『二足のワラジ』を履く決心である」(『赤い手 運命の岐路』)

 板東は1年目のオフから副業に精を出す。株への投資、ジュークボックスの営業、牛乳配達、果ては自社ビルを建ててのサウナ経営などである。ネタのように言われていて「板東さんは自社ビルが落成したときに仮病を使って球場に行かずにビルでにこやかに来賓を迎えていた」というのは、事実である。

 これもかつて聞いた話である。「僕は満州体験が大きいんですね。母親が大きな料亭を経営していて何不自由なく育っていた。それが一夜にしてすべてを失って引揚者となって飲まず食わずで追われる身となったんです。何かが起こっては遅いという観念からか、投げている時から、ビジネスに執着していました。特に杉浦さんの一球を見た時からは」

 それでなくとも高校時代の酷使から、肘はすでに悲鳴をあげていた。セーフティネットとしての二足のワラジであった。

 板東にプロ一本の道を諦念させたその杉浦の剛球。しかし、それを熊本太郎はこの時打ち砕いた。

 板東が三振した次のイニングである4回裏であった。西沢のあとに三番に座った江藤がバットを一閃すると、代名詞となるレフトへの弾丸ライナーがスタンドに突き刺さった。南海のエースの球を初打席でスタンドに運んだ。新人初年度からの活躍を約束づけるような豪快なアーチだった。

 プロ1年目、江藤は139安打本塁打15本打点84でオールスターにも出場する。


(つづく)

【写真・画像】江藤慎一の軌跡を写真で振り返る

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