DeNA大家友和コーチは「観察」重視。「自分の考えより、まず選手を見る」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Koike Yoshihiro

 1998年12月、憧れていたメジャーに挑むためベイスターズを自由契約になった大家は、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。翌99年3月、レッドソックスのマイナーキャンプに参加して以降、2Aのトレントン・サンダーの監督、コーチから見られる日々が続いた。

「どういう選手かわからない、というところが根本的にあるので、いま振り返れば、ずっと見られていたなと思いますね。言語の違いで、僕のコミュニケーション能力がその時点では高くなかったこともあって、より、見ることに重きを置かれたんじゃないかと」

 野茂英雄(元・近鉄ほか)が95年に海を渡ってから四半世紀。今でこそ、米球界において日本人投手は一定の評価を得ているが、99年当時はまだ"黎明期"だった。野茂のあと、大家の前、メジャーのマウンドに上がった日本人投手は6人しかいなかった。

 まして大家自身、京都成章高からドラフト3位でベイスターズに入団し、94年からの在籍5シーズンで一軍ではわずか1勝。日本での実績はないに等しかったから、なおさら「わからない」投手だった。見るという言葉は、「観察」に置き換えられるだろう。

「まさに、そうですね。いろんなことに対しての適応力も見られていたと思いますし、マイナーリーグでやらなきゃいけない仕事をこなす内容だったり、取り組む姿勢だったり。

 その点、僕が2Aの試合で結果を残すにつれ、いったい何をどう過ごしていて、どういう練習をして結果を出しているのか、という興味もおそらく持ってもらったと思います。そこに行き着くまで、もちろん会話はするんですけども、やっぱり、見られていたと思います」

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