大矢明彦が明かす内野陣コンバートの真相「石井琢朗を売り出したかった」 (4ページ目)
「それはもうそれでしょうがないですよね。この世界は契約社会ですし、確かに2年契約でしたから。シーズンが終わる何日か前に、明日球団に来てくれと言われて、たぶん来年の話だろうなと思って行きました。
その当時の横浜はスケジュールなどを全部紙に書いて提出するというシステムだったんです。で、まずは秋季練習をこういうメンバーで何日から何日ぐらいでやろうと考えてそれをコーチの人たちに全部出してもらって、その書類を持っていったんです。そうしたら、『お疲れさまでした。来年はもう契約はありません』と言われて。正直最初は『エッ』という感じではありましたが...。満了ですから、恨みも何もありません」
そして、1998年に日本一になったのは周知の通りである。盤石のレギュラー陣が若く、さらには成功経験を積んだチームということもあり、黄金時代は続くかと思われた。しかし、連覇はならなかった。横浜の栄光を一年で終わらせてしまったのは、何が問題であったのだろうか。
「これは個人的な意見ですけれども、生え抜きをもう少し大事にしてほしいというのは常に思っていました。僕がいた時の高木豊もそうでしたけど、結局チームを出されてしまう」
タラレバの話になるが、もしもう一年、大矢が指揮を執っていたら、いかなるビジョンでどんなことに着手をしていただろうか。
「あれだけ野手の連中が頭角を現して、いいチームになっていったので未来は楽しみでしたね。横浜スタジアムという狭い球場をフランチャイズにするのであれば、まずはマシンガンで打っていかないと面白みがないんです。だけど、野球ってそれだけでは続かないのでね。
若手のピッチャーの人たち、僕が使いかけた、当時の戸叶尚だとか福盛和男だとか、あの連中を一人前に持っていこうと考えていました。そうなれば、チームの形がきちんと成立して、向こう、それこそ5年ぐらいは、常に優勝に絡んで戦って行けるんじゃないかと思っていました」
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