大矢明彦が明かす内野陣コンバートの真相「石井琢朗を売り出したかった」 (5ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Jiji Photo

 実は内野に続いて外野も鉄壁の守りになる予定であった。

「新庄剛志(当時阪神)が横浜に来たいと言ってたんです。畠山準とトレード寸前まで行って。そうしたら、阪神の藤田平監督がその年(1996年)の夏に解任されることがわかって、それで壊れたんです」

 当時、指導において心掛けていたこと。それがまた非常に大矢らしい誠実で謙虚なポリシーだった。

「あのころはバッティングピッチャーなどの裏方さんもそんなにいなかったですから、それこそコーチ連中も総出で投げられる人は投げたりとかしていました。でもそれが、大切というか、選手たちがそういう姿を見ていると『ああ、一生懸命指導されている』と思ってくれるわけです。

 コーチと選手はしっかり意思が疎通できてないといけないんです。特に現役の時にそんなに成績を残していない人がコーチをやって情熱を感じられなかったら、『お前、だからレギュラーになれなかったんじゃないか』とかって思う選手は必ずいるんです。

 とにかく自分たちの気持ちが選手に通じるということが一番大事だと思っていましたので、その姿勢は常にコーチの人たちにお願いしていました」

 2007年、大矢は10年ぶりに横浜の監督に復帰する。間には権藤博、森祇晶、山下大輔、牛島和彦の4人の監督が指揮を執っていたが、大矢の帰還については、第一次政権の時代に薫陶を受けた選手たちから、「もう一度大矢さんとやりたい」という声が上がったことが大きかった。

「僕はもう監督をやるつもりはなかったので、それがなかったら、復帰しませんでした。選手がそう言ってくれたのは、とってもうれしかったですね。2回目の監督の時の印象は、佐伯貴弘だとか鈴木尚典だとか、琢朗たちがもうベテランだったので、僕の仕事とすれば、この連中をどうやってうまく引かしていくか、というのが一つのミッションだと考えました。

 一方で若い選手は、正直なかなかこれといった人材がいなかった。だから、個人を伸ばすというのは難しいチームだなというのはありましたが、その当時は、チームの方針として『若返りをしたい』という話がありましたので、同じレベルだったら若い選手を使っていました。だから、もう少し骨のある選手がいてくれたらなというのはありました。

 僕の二期目はキャッチャーが相川亮二だったんですが、彼がFAでヤクルトへ行っちゃったんです。あれがやっぱり残念で、自分ではもうちょっと育てたかった。シゲ(谷繁)とは違って、多少体が弱いところはあったんだけど、結構粘り強い考え方をする選手だったので、また違うキャッチャーに成長してくれたと思うんです。

 シゲはその当時はもう中日のメインのキャッチャーで、うちの若手選手がもてあそばれるみたいな感じで、バッターボックスで踊らされちゃってね。たまに会うと、『シゲ、もうちょっとお前、遊ぶなよ』とかっていう話をしましたけどね(笑)。

 彼はもうその頃は、ゲームの中のポイントを好調な強打者に持っていかないように試合をコントロールしていましたし、たまたま来ちゃった場合は、どうやっていくかというのをゲーム前からもう考えていましたしね」

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