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悲劇の死! 元横浜の助っ人は
村田修一の心配をしていた「いいヤツ」 (2ページ目)

  • 阿佐智●文・写真 text&photo by Asa Satoshi

 ホセ・カスティーヨ――この名前を覚えている人は多いだろう。2010年に元メジャーリーガーとして鳴り物入りで横浜ベイスターズ(現・横浜DeNA)に入団し、打率.273、19本塁打と、まずまずの成績を残した。特にメジャーでも評価の高かった守備は二塁手として持ち味を発揮したが、チームの低迷もあり、1シーズンで解雇となった。

 翌2011年はメキシコで開幕を迎えるも、シーズン途中でロッテに入団し4番を務めた。しかし打率.269、5本塁打と振るわず、この年限りで退団。その後は、夏はメキシコ、冬は故郷のベネズエラでプレーを続けていた。

 昨シーズン(2016年)もメキシコでプレーしていたが、出場機会に恵まれず、シーズン途中にトレードも経験。結局、メキシカンリーグでは37安打しか放てなかった。それでもメジャーリーガーが多数参加するウインターリーグでは、二塁のレギュラーとして打率.332をマーク。だが、今年の春、どこからもオファーがなかった。

 そこで選んだのがイタリアだった。イタリアの野球関係者は「このリーグにはいろんなヤツが流れてくるよ」と言うが、その言葉通り、ほかでプレー先のない選手が多数在籍している。

「どうしてイタリアまで来たのかって? まだまだやれるからさ」

 メジャーという野球の頂点を極めた選手が、日本円にして月給数十万円の、しかも球場内にある一室に住み込んでまで野球を続ける理由がわからなかった。しかし、彼の答えは実にシンプルだった。実際、36歳(当時)の今も華麗なグラブさばきは健在。まだまだ現役として十分にプレーできることを見せつけている。

 カスティーヨにとってイタリアは、7カ国目のプレー先となる。ちなみに、いま在籍しているパルマは自身20チーム目。これだけ多くのチームでプレーしたならば、半シーズンしかいなかったロッテのチーム名を思い出せなかったのも頷ける。

 日本でプレーした経験のある外国人選手のほとんどは、それを良き時代ととらえ、様々な思い出を語ってくれるのだが、カスティーヨにとっての"日本"は、長いキャリアのほんのワンシーンに過ぎない。

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