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名門・帝京のキャプテンを務めていた佐々木則夫、"県工"の木村和司の第一印象は「ツッパったヤツだな」

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Masaki Asada

木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第27回:佐々木則夫評(1)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

高校時代の木村和司氏(後列右から4番目) 写真提供:(有)シュート高校時代の木村和司氏(後列右から4番目) 写真提供:(有)シュートこの記事に関連する写真を見る 1976年(昭和51年)度の第55回全国高校サッカー選手権大会は、冬の風物詩"選手権"が現在まで続く首都圏開催となって初めて行なわれた、記念すべき大会である。

 と同時に、決勝で浦和南高が5-4という壮絶な打ち合いの末、静岡学園高を下すという、歴史的名勝負が繰り広げられた大会としてもよく知られている。

 そんな高校サッカー史に残る大会では、のちに日本女子代表を世界一に導く指揮官となる高校生が、大会優秀選手に名を連ねていた。

 当時、帝京高3年の佐々木則夫である。

 帝京のMFとしてこの大会に出場した佐々木は、全国高校総体に続く夏冬連覇こそ逃したものの、のちに日本代表(A代表)で活躍する金子久、宮内聡ら、2年生に優れた人材がそろう若いチームを引っ張り、ベスト4進出に大きく貢献した。優秀選手選出は、当然の栄誉だった。

 その一方で、佐々木の同級生にして、すでにユース代表(年代別日本代表)候補にも選ばれていた木村和司の名を、そこに見つけることはできない。

 大会優秀選手に選ばれる以前に、木村を擁する県工、すなわち県立広島工業高が、全国大会に駒を進められなかったからである。

「(県工は)その前年までは強かったと思うんですけど、僕らの代はそんなに強くなかった。確か、(広島県予選準決勝で)国泰寺に負けたんですよね。だから、和司は全国に出ていなかった」

 そう回想する佐々木が、木村の才能を初めて目の当たりにしたのは、選手権が行なわれる2カ月ほど前のこと。前述のとおり、木村個人はユース代表候補にも選ばれるなど、全国的にもその名を知られる存在になってはいたが、佐々木が木村のことを知ったのは、「高3の国体ぐらいから」だったという。

「(木村のいる)広島県選抜と(佐々木のいる)東京都選抜が国体で対戦するかもしれないっていうことで、そのときに初めて和司の技術的な要素というものを確認したって感じでした」

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