【箱根駅伝 名ランナー列伝】渡辺康幸(早稲田大学):いまもなお数多の人々の記憶に鮮明に生き続ける比類なき「超大学級」のスケール
箱根駅伝2区で2年連続1時間06分台をマークした早大・渡辺康幸 photo by Kyodo News
箱根路を沸かせた韋駄天たちの足跡
連載01:渡辺康幸(早大/1993〜96年)
いまや正月の風物詩とも言える国民的行事となった東京箱根間往復大学駅伝競走(通称・箱根駅伝)。往路107.5km、復路109.6kmの総距離 217.1kmを各校10人のランナーがつなぐ襷リレーは、走者の数だけさまざまドラマを生み出す。
すでに100回を超える歴史のなか、時代を超えて生き続けるランナーたちに焦点を当てる今連載。第1回は、1990年代に圧倒的なスケールの走りを見せた渡辺康幸(早大)を紹介する。
【高校2年秋から続いた"無敗伝説"】
何から書けばいいのか。筆者が大学1年時に4年生だった渡辺康幸。憧れの目で追いかけていた存在は、とにかく凄まじかった。ひと言で表現するとアニメに出てくるヒーローそのものだったのだ。本人も「完璧な4年間だった」と表現した臙脂(えんじ)の時代。その圧倒的な戦績を振り返りたい。
渡辺の話をするなら市船橋高校(千葉)時代のことも欠かせない。なぜなら彼の"無敗伝説(同学年以下の日本人に負けなし)"は高校2年の秋から始まるからだ。3年時(1991年)はインターハイで1500m、5000mの2冠を達成。国体(現・国スポ)少年A10000mは29分11秒59の大会新で連覇を飾ると、12月には10000mで28分35秒8の高校最高記録(当時)を樹立する。全国高校駅伝は1区を29分34秒で突っ走り、2年連続の区間賞を獲得した。そして名門・早稲田大学に進学する。
「早大に進学した理由は、コーチに瀬古利彦さん、2学年上に武井隆次さん、櫛部静二さん(現・城西大監督)、花田勝彦さん(現・早大駅伝監督)がいらっしゃったのが大きかった。レベルの高いチームで競技を続けたいと思っていたからです。トラックで世界を目指すことが一番で、その次に箱根駅伝があるという感覚でした」
渡辺の言葉に当時の"熱い思い"が詰まっている。世界と戦うには普段から強い先輩たちと競い合い、留学生が相手でも負けるわけにはいかない。そんな気持ちだったのだ。
初めての箱根駅伝(1993年/69回)は先輩たちを押しのけて、花の2区に抜擢される。最初にタスキを受け取ると、悠々とトップを独走。「きつかったですけど、うまくまとめられた感じで、狙いどおりでした」と1時間08分48秒の区間2位と好走した。区間賞は山梨学院大学のステファン・マヤカで1時間08分26秒だった。スーパールーキーの活躍もあり、早大は8年ぶりの総合優勝に輝いた。
大学2年時(1993年度)は6月の日本選手権10000mで4位(28分31秒57)に入ると、その後は欧州遠征を敢行。50日間ほど海外で過ごし、バッファロー・ユニバーシアード(現・ワールドユニバーシティゲームス)10000mで銀メダル(28分17秒26)を獲得した。
箱根駅伝(1994年/70回)は「チーム戦略」で1区に起用された。瀬古コーチの「1分半離せ」という"むちゃぶり"に海外で磨いたスピードで応じる。当時としては異次元ともいる20kmを57分台で通過。先輩の櫛部が前年にマークした記録を56秒も更新する1時間01分13秒の区間記録(当時)を打ち立てた。しかし、山梨学大・井幡政等に18kmまで食らいつかれ、ライバル校を引き離すことができない。2区の花田が、1時間07分34秒の区間タイ記録で走った山梨学大・マヤカに抜かれて、チームは連覇を逃した。
「1区はプレッシャーなので、この年が一番しんどかったかなと思います。でも2区の区間記録は翌年、破れるかなというイメージはありました」
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著者プロフィール
酒井政人 (さかい・まさと)
1977年生まれ、愛知県出身。東農大1年時に出雲駅伝5区、箱根駅伝10区出場。大学卒業後からフリーランスのスポーツライターとして活動。現在は様々なメディアに執筆している。著書に『箱根駅伝は誰のものか』『ナイキシューズ革命 〝厚底〟が世界にか
けた魔法』など。

