世界陸上で日本記録を出した為末大が振り返る銅メダル「当時のピーキングは『ドン』と大会に当てて一発を狙う感じでした」 (3ページ目)
【メダル獲得以降の苦悩】
――あのメダル獲得から、環境もかなり変わりましたね。
為末 いろいろありました。今47歳なんですが、このくらいの歳になると人生にもいろんなルートがあるのが見えてきます。僕は広島生まれで、当時はインターネットもないから「こういうものだろう」と思って歩んできた道をあらためて見ると、広島から「陸上がすべて」と思って出てくるパターンもあれば、早い段階から「陸上以外」を選ぶ人生もあったり。
選手としてやっていくためにマネジメント事務所を選ぶ時も、当時は目の前にある1個を選ぶ感じでした。陸上界自体、マネジメントをみんながよくわかっていない時代だったから、靄(もや)のなかを手探りで選んでいった印象です。そういう選択が始まったのが、2001年以降です。
――そこからは少し苦労しましたよね。2003年世界選手権も準決勝敗退でした。
為末 2001年以降は、モチベーションの維持が大変でした。ケガも少しあったんですが、燃え尽き症候群のほうが大きかったです。
――何かを変えなければとアメリカに行き、筋肉をつけたり試行錯誤していた時期もありましたね。
為末 あがいていました。父親が亡くなったのが、2003年の世界陸上パリ大会が始まる1週間ぐらい前で、バタバタしているなかで大会を迎えました。2002年と2003年はうまくいかなくて、2004年にプロ転向をしました。その年のアテネ五輪はダメだったけど、なんとなく「こうやったらいけるかな」というのをつかんで2005年の世界陸上ヘルシンキ大会では、銅メダルを獲得できたんですよね。
――2003年シーズンが終わったあと、「余分な筋肉を1回落として、走るための必要なだけの筋肉にする」と話していました。それはアテネ五輪に間に合わなかったのですか?
為末 そうですね。必要だった股関節あたりの筋肉がついたことで出力もすごくよくなっていたのですが、五輪には間に合いませんでした。五輪後の9月のグランプリファイナルで6位になったり、ようやく馴染んできて2005年を迎えられたという感じです。
――でも、体が変わるとハードルの走りや跳ぶ技術も変化があると思うのですが、そこを探るのも大変でしたか?
為末 それはそんなになかったんです。自分で言うのもあれですが、僕はハードルがうまかったんですよね(笑)。走りや体づくりではずいぶん悩んだけれど、ハードル技術で悩んだことなかったです。
ハードルの間は35mとけっこう長めでそこを走る時に風などの影響で歩幅が微妙に狂い、いつも踏みきるところに足を置くのが普通は難しくなる。ハードル間で微調整するところに技術の肝があるけど、それが他の人よりうまかったんです。
つづく>>
Profile
為末大(ためすえ・だい)
1978年5月3日生まれ。広島県出身。中学生のころから陸上で頭角を現し、高校では400mハードルで日本高校新記録と日本ジュニア新記録をマーク。大学4年時にシドニー五輪日本代表に選出され、以降五輪には3度出場した。世界陸上にも4度出場し、そのうち2回銅メダルを獲得。2003年にはプロに転向し、2012年に引退。現在はスポーツ事業を行なうほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求している。
著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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