箱根駅伝で創価大学を頂点へ導く榎木和貴監督の戦略は? 中大時代は4年連続区間賞 (2ページ目)

  • 牧野 豊/取材・文 Text by Makino Yutaka

――2年目も同じ8区で、チームは総合3位でした。

「チームとしては、もう少し重要度の高い区間を私に走ってもらいたかったと思いますが、本戦の直前でも調子が上がらず、それなら前年に好走した区間だろうと8区に起用されました。前年は区間記録まであと11秒くらいだったので、出ると決まったら区間記録更新を目標に走りました(15年ぶりに区間記録を更新)。当時は8区や10区がチームの9番目、10番目の選手が配置される区間で、エースは2区、準エースが4区を任される時代でした」

――上級生の2年間は4区を走りました。

「3年生になってからは関東インカレなどのトラックレースでも5000m13分台、10000m28分台を出していました。また同期には4年間、2区を走った松田(和宏)がいたので、自分も準エースとして4区を志願して、役割を全うしないといけない思いでした」

――松田さんがいたとはいえ、エース区間の2区を走ってみたいという気持ちはなかったのですか。

「あまり上り(基調のコース)が得意でなかったので、2区の上りを見た時に『こんなところを走るのか』と。松田は逆に上りがすごく得意でしたし5区も走れるくらい上りの適性がありました。もしかしたら私が2区を強く志願していたら、松田が5区に回ってくれた可能性もあったかもしれません(笑)」

――3年時はチーム順位も6位から2位に上げ、総合優勝に貢献しました。

「直前の全日本大学駅伝では、アンカーまで1分半近く早稲田大にリードを奪いながら、最後に渡辺さん(康幸、現・住友電工陸上競技部監督)に大逆転を喰らって負けたので、箱根は絶対に勝つぞ、とチームの機運は上がっていました。ただ、箱根では(3連覇を狙っていた)山梨学院大、(初優勝を狙う)神奈川大が同じ4区で途中棄権したので、もし優勝候補の2校が万全だったら自分が区間賞を取れたかは分かりません」

――今もそうですが、常に謙虚な受け止めですね。4年ともそれぞれ異なるアプローチで箱根に臨んだと思いますが、区間賞に対してはどのような意識を持っていたのですか。

「1年目は狙っていたわけではありませんが、箱根に限らず、駅伝におけるチームへの一番の貢献は、区間賞しかないとは思って走っていました」

――選手として、箱根駅伝での思い出や学んだことは?

「4年目ですね。周りからは3年目まで区間賞で順調にきて、4年目も確実だろうと思われていましたが、実は夏以降ずっと不調だったんです。コンディション面も含めてうまくかみ合わなくなり、区間賞どころか箱根出場すら大丈夫なのかという状況がずっと続いていたので、そういった不安との戦いもありました。春先はトラックで自己ベストを出して順調だったのですが、その反動からか突然落とし穴にはまった感じで。ただ最後は、大志田コーチ(秀次、現・Hondaエグゼクティブアドバイザー)から『4区はお前しかいないだろう』と背中を押してもらい、何とか走ることができました」

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