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「今度こそ文句はないだろう」大森盛一はアトランタ五輪のマイルリレー出場のため練習でも「一度でも負けてはいけない」と考えていた (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【燃え尽きて引退→再び陸上界へ】

 アトランタまでの4年間で出しきってしまったからなのか、翌1997年からは少しずつ調子がおかしくなっていった。

アトランタ五輪で使用したバトンとスパイクを大切にとってあると話してくれた photo by Nakamura Hiroyukiアトランタ五輪で使用したバトンとスパイクを大切にとってあると話してくれた photo by Nakamura Hiroyuki「引退までの4年間は、45秒台を出したいという思いはあった一方で、翌年の夏前からだんだん走れない体になっていました。多分96年の反動が大きくて限界が来ていたんでしょうね。大学1年から日本代表に入り、バルセロナで走れなかった悔しさで頑張って、選手寿命を縮めたのかもしれない。本当は2000年の(地元の)富山国体まで続けたかったけど、そこまでたどり着かずに終わってしまいました」

 バルセロナ五輪から帰国した時は、親に富山に帰ってこいと言われたが、「今のままでは帰れない」と言って帰らなかった。富山に帰省できるようになったのは、世界選手権代表に選ばれた1年後からだった。

 そしてアトランタ五輪前には地元に帰り「バルセロナは出られなかったけど、必ず走って帰ってきます」と断言した。常にトップでいないと選ばれないというプレッシャーを感じるなか、そう口にしないと心も折れて五輪で走ることが実現しないような気がしたからだ。アトランタ五輪後も地元に帰り、お祝いもしてもらい、やっと恩返しができた気持ちになれた。

「いいところも悪いところも経験した」と言う大森は、2000年に引退した時は陸上が嫌いになっていて、『もう陸上界には戻るまい』と思っていた。

 引退後は様々な職業を経験した。

「陸上しかやってこなかったので、社会で通用するものは何も持っていなかったんです。持っているのは頑丈な体だけ。だとしたら、怖がることなく新しいところに飛び込んで、とりあえず一からやってみようと思いました。1つの競技に長く打ち込んできたので、根性はあると思って、自分のやりたいことをやればいいじゃないかってセカンドキャリアをすごしていました」

 しかし、引退から7年ほど経つと自然と走りたくなった。マスターズ陸上に出てみようと思い、動き始めると陸上関係の人が集まるようになり、パラ陸上の選手とも知り合って指導を頼まれた。

 また、陸上を離れたことでオリンピックの経験などを伝える手段がなくなってしまったこともひとつ後悔として残っていたという。そこに自分の娘にも陸上をやらせたいという思いが重なり、現在の活動拠点となっている陸上クラブ『AFTC(アスリートフォレスト トラッククラブ)』を2008年に立ち上げた。

「指導していると、自分が直面した場面に選手が突き当たることがあるんです。落選するとか、うまく記録が出せないとか。そういう時にアドバイスできるのは、やっぱりこれまで自分が経験してきたことでした」

「現役時代にやりきれなかったことがたくさんある」と大森は振り返るが、だからこそこのクラブで多くの選手と出会い、自分の思いを託せる選手を育てたいという夢を持って活動している。

Profile
大森盛一(おおもり しげかず)
1972年7月9日生まれ。富山県出身。
中学時代から陸上を始め、日本大学を経て、ミズノに所属。400mを専門として、大学時代に日本代表に選出され、アトランタ五輪ではマイルリレーをアンカーで走り、日本勢64年ぶり5位入賞に貢献した。2000年の現役引退後は、様々な職種を経験し、一度は陸上界から離れたものの、2008年に陸上クラブ「アスリートフォレスト トラッククラブ(A F T C)」を立ち上げた。現在は自身の経験を生かし、指導者として活動している。

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