「だったら選ぶなよ」バルセロナ五輪でリレー代表に選出されるも本番で走れず 大森盛一は納得できず「予選落ちすればいい、と思っていた」

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 大森盛一 編(前編)

陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る人々を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5~6人がリレー代表として選出され、当日までメンバーは確定しないことが多い。その日の戦術やコンディションによって4人が選ばれ、予選、決勝でメンバーが変わることもある。走れなかった5人目はどんな気持ちでレースを見守り、何を思っていたのか――。

走ることができなかった1992年バルセロナ五輪を振り返った大森盛一 photo by Nakamura Hiroyuki走ることができなかった1992年バルセロナ五輪を振り返った大森盛一 photo by Nakamura Hiroyuki「1995年の世界選手権も、日本選手権での400mで3位に入っているのに、本番でのリレーの選手に選ばれたのは2位までで、僕はダメで。本当に不遇でした」

 こう語るのは、大森盛一。大学2年生で迎えた1992年バルセロナ五輪で、4×400mリレー要員として代表に選出されながらも、伊東浩司(富士通)とともに一度も走ることは叶わなかった。

◇◇◇

 大森盛一(日本大学)の経歴を振り返れば、大学1年でマイルリレーの1991年世界選手権代表になって以降、バルセロナ五輪を含め、世界大会などで日本代表に選出されながらも、1994年アジア大会まで4大会連続でマイルリレーを走ることができなかった。

 当時、日本のトップにいた高野進(東海大)が400mで日本記録(44秒78)を出して優勝した1991年日本選手権で、大森は自己新記録(46秒63)の5位(日本人4位)で世界陸上代表に選ばれた。しかし、その年は世界陸上が東京開催だったこともあり、「おまけで選ばれた」という感覚しかなかったという。

「とりあえず着順に入ったから選ばれただけで、メンバーを見ても高野さんがいて渡辺高博さん、小中富公一さん、苅部俊二さんもいて......、僕が走る場所はないじゃないですか。だから『これはしょうがない、ついていくだけだ』と思っていました。

 当時は高野さんとマイルリレーはセットみたいな感じで、チームとして狙っていたのは総合力で入賞というところでした。この頃はみんな4×100mリレーよりもマイルリレーのほうが入賞に近いと思っていたんですよね」

 しかし、そんな期待感のあるチームでも結果は予選敗退と世界の壁は高かった。

 そして翌年は7月から始まるバルセロナ五輪に向けて、日本選手権の400mで4位に入り、マイルリレーの代表に再び選ばれた。「今度こそ日本代表としてマイルリレーに出られる」と思っていた大森の思いとは裏腹に本番で選ばれたのは、またしても違うメンバーだった。

「五輪の予選当日のウォーミングアップの前にメンバーが発表されて、なぜ自分が外されるのかわかりませんでした。しかも、メンバーに入ったのは400mハードルの斎藤嘉彦さんで......。持ちタイムを考えても『自分が斎藤さんより遅いわけはない』という気持ちも正直ありました。やっぱり、『現地まで行って走らないで帰るのはないだろう』という悔しい気持ちと、『だったら選ぶなよ』という怒りに近い気持ちでした」

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