「今度こそ文句はないだろう」大森盛一はアトランタ五輪のマイルリレー出場のため練習でも「一度でも負けてはいけない」と考えていた

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 大森盛一 編(後編)

前編:納得できず「予選落ちすればいい、と思っていた」>>

前編では、大学2年生で日本代表に選ばれたものの走ることが叶わなかった1992年のバルセロナ五輪を振り返り、悔しい思いを語った大森盛一。そこから4年後のアトランタ五輪で4×400mリレー(マイルリレー)を走れることになるまでの経緯と、走れなかった経験と走ることができた両方の経験をしたからこそ、生まれた思いを後編では語ってもらった。

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アトランタ五輪の決勝ではアンカーを務めた大森盛一 写真:毎日新聞社/アフロアトランタ五輪の決勝ではアンカーを務めた大森盛一 写真:毎日新聞社/アフロ 1992年のバルセロナ五輪で走ることが叶わなかった経験を経て、4年後のアトランタ五輪で走るためには、実績を積まなければいけないと大森盛一(当時・日本大)は考えた。45秒台を出すために、当時400m種目の中心選手だった高野進(東海大)が、1988年のソウル五輪で44秒台を出しながらも決勝進出を逃したあと、2年ほどは100mや200mに専念していたことを思い出し、専門外の距離を走るか悩んでいた。

 当時、日本大学にはバルセロナ五輪の100mに出場した井上悟や、1991年世界選手権200m出場の奥山義行などの強い選手が揃っていた。だが、大森は日大が関東インカレや日本インカレで総合優勝を狙うため、「400mをしっかりやってくれ」とコーチから言われており、それ以外の種目を走る機会はあまりなかった。

 翌年の1993年世界選手権では再び日本代表に選ばれたものの、またしてもマイルリレーを走ることはできなかった。それでも1994年もマイルリレーを走るために折れることなく、大森はその時の状況でできることに取り組み続けた。

「94年は日本選手権も日本インカレも400mで1位になってアジア大会に行ったんです。ベストタイムも46秒20で、(当時の)日本ランキング2位と悪くなかったけど、アジア大会の個人の決勝だけ悪くて......。4位になった稲垣誠司(法政大)に負ける5位で、(マイルリレーを)外される理由ができてしまったんです。当時はまったくタイプの違う渡辺高博さんにも『45秒台を出すにはどうしたらいいですか?』と聞いたくらい、『勝っても認めてくれないのなら、45秒台を出す以外に方法はない』と空回りしていました」

 それでも大森は、前半から突っ込むスタイルを突き詰めていた。

「前半を21~22秒台で通過するのが僕のスタイルだったし、僕みたいに前半をかっ飛ばしていく選手は当時いなかったんです。最初からほぼ全開でいっても400mを走りきれるというが、僕の築いていったスタイルでした」

 1995年は日本選手権の400mで3位になりながらも、世界選手権のマイルリレー代表に選ばれたのは2位の選手までだった。ここまで空回りしていた大森だったが、選ばれなかったことで、翌年に迫ったアトランタ五輪へ向け、やるべきことが明確になったと振り返る。

「アトランタ五輪へ向けた全日本強化合宿は95年から始まって、僕の戦いもそこから始まっていました。候補選手がたくさんいて宮川千秋先生の練習メニューに取り組むなかで考えていたのは、『一度でも負けてはいけない』ということでした。『ここで負けたらきっと外される。同じ轍を踏んではいけない』と思っていました。

 1996年の日本選手権で優勝した時は、『今度こそは文句はないだろう』と......。予選では自己ベストの46秒00を出していたし、その46秒00も後半はかなり余裕があってのタイムだったので自分でも、『こんな余裕があって46秒00が出るの?』と思ったくらいでした。決勝は雨が降ってすべて向かい風の条件でしたが、それでも自分のスタイルで前半から突っ込んで優勝できました」

 その日本選手権を終え、400mの結果から五輪代表に選ばれたのは、優勝した大森と2位の田端健児(日大)、日本選手権は4位ながら5月に46秒08を出していた小阪田淳(京産大)の3人だった。400mハードルからは、過去3年は主力として走っている苅部俊二と山崎一彦がマイルリレーの候補に入った。

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