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「だったら選ぶなよ」バルセロナ五輪でリレー代表に選出されるも本番で走れず 大森盛一は納得できず「予選落ちすればいい、と思っていた」 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

【バルセロナ五輪を走れなかったから見えたこと】

 納得できないメンバー選考だったが、のちに「こういうことか」と気がついたこともあった。当時の大森はまだ大学2年で練習の強度が高くなく、ほかの代表選手に練習で負けることが多かった。

「全員で練習しようとなると、やっぱり負けてしまう。一番若いし、体力もないし、まだ経験もないとなると、(コーチの)僕の印象は悪くなるので使いづらくなったのだろうな、というのはありました。『練習で負けないようにしなければ』という思いはあったけど、当時の僕は試合で"一発の力"を出す能力はあったけど、練習で常に勝つのは厳しいものがありました」

 五輪前から2カ月間すごしたヨーロッパ合宿で、日本にいる時の自分の練習ができなかったことも影響した。チームとして行動するため、担当する宮川千秋コーチが練習メニューをすべて決めていたからだ。

「宮川先生は長い距離を走らせるタイプで、僕にはその練習が合わなかったんです。スピード型なのでスピードで対抗する練習なら勝てたんですが、長い距離を走るとなると他の選手に勝てない。コーチの指導方針と合わないというところも、使われなかったひとつの理由かなと思います」

 それでも、持ちタイムは5人中4番目で、バルセロナ入りをしてからも絶対に走れると信じて、選ばれればちゃんと走れる準備はできていた。

「仕方のないことですが、代表になると普段は僕を見ていない人が評価するので、これがいい状態なのか悪い状態なのかとか、パッと見ただけではわからないじゃないですか。

 後々聞いたのは、宮川先生のなかで僕は後半失速するというイメージが強かったそうです。でも僕は確実に前半型で、リードを取って極力失速しないようにして逃げきるのが僕の走りでしたし、それを認めてくれないのならどうしようもなかったんですよね」

 それでも大森は、悔しい思いに囚われるだけでなく、ここからどうすれば五輪で走ることができるのかと考えを切り替えた。

「宮川先生がコーチでいる限りは、練習で負けるところを見せたら終わりだと思いました。その経験があったから、1996年のアトランタ五輪では走ることができたんです。そう考えれば、バルセロナで外されたことは、よかったなと思っています」

後編:練習でも「一度でも負けてはいけない」と考えていた>>

Profile
大森盛一(おおもり しげかず)
1972年7月9日生まれ。富山県出身。
中学時代から陸上を始め、日本大学を経て、ミズノに所属。400mを専門として、大学時代に日本代表に選出され、アトランタ五輪ではマイルリレーをアンカーで走り、日本勢64年ぶり5位入賞に貢献した。2000年の現役引退後は、様々な職種を経験し、一度は陸上界から離れたものの、2008年に陸上クラブ「アスリートフォレスト トラッククラブ(A F T C)」を立ち上げた。現在は自身の経験を生かし、指導者として活動している。

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