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箱根駅伝5区で好走も「山の神になりたいとかはなかった」。細谷恭平の「究極の省エネ走法」は大学時代に完成した (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

独学で身につけた上りの走法

 細谷は、故障で走れない状態が続き、ブランクがあった。「復帰しても何か強みがないと埋もれてしまう」と思い、ふだんの練習はもちろん、夏合宿中もがむしゃらに上りを繰り返した。

「最初は、ただ頑張って上っていただけなんですけど、続けていくうちに斜面に対しての体の角度や足の回転の速さなどを微妙に変えていったんです。そうしたら上りやすいフォームが見えてきて、スムーズに上れるようになったんです。完全に独学でしたが、試行錯誤しながら上りのコツを掴みました」

 川崎監督は、箱根駅伝で5区と8区を重視していた。上りをアピールしてきた細谷は、遊行寺の坂のある8区を任された。

「2年の時、初めて箱根駅伝に出させていただきました。その時、監督が狙ったのかどうかわからないですけど、海老澤太さんが7区、僕が8区、剛さんが9区になり、3人で襷をつながせてくれたんです。水城高校の憧れの先輩の給水から1年後、襷をつないで走れるなんて想像しなかったので、すごくうれしかったですし、中央学院大に入ってよかったと思いました」

 遊行寺の坂には面食らったが、初の箱根駅伝で8区3位と上々の走りを見せ、チームは総合9位でシード権を獲得した。

 3年になると、強みである上りを活かして川崎監督が最も重視した5区に抜擢された。軽い走りで坂を上り、区間3位となり、チームの総合6位に大きく貢献した。

「上りはすいすい行けたんですけど、下りとラストの平地で離されたんです。下りは練習すればなんとかなるなって思いましたけど、ラストの平地がきつくて、足のタメがなくなってしまう。そこで差が開くので、そこをどう粘れるかが翌年に向けての課題でしたね」

 チーム練習では、当然だが上りだけのメニューはない。基本的に集団走がメインなので、フリージョグの時間もあまりなかった。ただ、合宿は高地で行なうため、必然的に上りや下りが増え、5区を想定して自分なりに考えて走った。そうすることで平地での脚力もついてきた。

 ラストの箱根駅伝は、2年連続で5区を任された。区間賞はもちろん区間新、そして「山の神」になりたいなど野心はなかったのだろうか。

「3年の時は、区間賞よりもどこまでいけるんだという感じで意識はしなかったです。4年の時は、タイトルとして区間賞を獲ってみたいという思いがありました。でも、山の神になりたいとかはなかったですね。いい位置で襷をもらえたらいろんな可能性があったのかもしれないですけど、襷をもらった時はかなりうしろ(16位)だったんで、少しでも順位を押し上げることしか考えていなかったです。最上級生としてシード権をチームに残して卒業したかったので」

 その頃は青学大、東洋大、早大、東海大らが強かった。箱根の上位を争う常連校に対して、「負けられない」と対抗心を燃やすことはあったのだろうか。

「他大学を意識することはなかったです。一個人がどこの大学に勝ちたいと思っても駅伝は団体戦なので、チーム目標に対して、みんながどれだけ意識がいっているかというのが重要です。自分もチーム目標を達成したい、そのための走りをしたいという気持ちしかなかったです」

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