【マラソン】箱根駅伝1区、沿道から「おまえら、歩くな!」とヤジが飛ぶほどの超スローペースに、合田椋は「よし、きた!」
【不定期連載】箱根からロス五輪へ~MGCに挑むランナーの肖像~
第4回 合田椋(安川電機)前編
拓大3年時、最初で最後の出場となった箱根駅伝は1区で区間11位 photo by AFLO
箱根駅伝を走ったという事実は同じでも、その物語は一人ひとりまったく違う。区間賞を重ねたスターもいれば、たった一度の出走で思うような成績を残せなかった選手もいる。本連載では、2028年ロサンゼルス五輪代表の座を争うMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)出場権獲得ランナーたちに、箱根を走った学生時代の記憶、そして、世界を見据えて42.195kmに挑む現在地を聞く。
第4回は、合田椋選手(安川電機・26歳)。実業団でスピードに磨きをかけ、迎えた初マラソン(2026年2月の大阪マラソン)で2時間06分51秒と好走、見事にMGC出場権と新人賞を獲得した新鋭だ。このインタビュー前編では、箱根駅伝に一度しか出場できなかった拓殖大時代の思い出を振り返ってもらった。
【名門高校に進むも都大路は一度も走れず】
小学生の頃は、縦じまのユニホームにあこがれていた。
「野球をやっていて、ポジションはキャッチャーでした。阪神タイガースが好きで、(地元の倉敷)マスカットスタジアムで試合がある時にはよく観に行っていました。ただ、足が速かったこともあり、体力づくりの一環として陸上クラブにも入ったら、タイムがどんどん伸びていったんです。陸上のほうが将来活躍できるんじゃないかと思い、中学からは陸上一本に絞りました」
中学では陸上競技部に所属した合田は、めきめきと力をつけていった。進学先に選んだのは地元・岡山の名門・倉敷高校だった。
「ほかの高校からもスカウトに来ていただいたのですが、岡山県出身である以上、倉敷高校に進んで、全国で活躍したいとずっと思っていました。特に都大路(全国高校駅伝)で、みんなと一緒に活躍したいという気持ちがあったので、選択肢は倉敷高校しかなかったです」
当時の倉敷高校には強力なメンバーが揃っており、非常に強かった。合田の1年時は都大路3位、2年時は優勝、3年時は2位だった。だが、合田自身は高校3年間で一度も都大路を走れなかった。
「(チームが)優勝から3位まで、すべての色のメダルを揃えられたのはよかったのですが......(苦笑)。3年生の時は副キャプテンとして、たとえ自分が走れなくても、サポートなどの部分でチームに貢献しようと思いながら頑張っていました。結局、高校では都大路を一度も走れなかったので、大学では同期のなかで一番早く箱根を走ってやろうという気持ちでした」
悔しい気持ちを抱えて進んだ大学は、当時、箱根常連校だった拓殖大だ。
「もちろん、(箱根で優勝を争う)名門と言われるような大学に行きたかったんですけど、そこまでの実力はなかった。自分の力で箱根を走れる大学、自分が輝けるところというのを考えて拓大に進学しました」
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著者プロフィール
佐藤俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)、「箱根5区」(徳間書店)など著書多数。近著に「箱根2区」(徳間書店)。


