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【マラソン】箱根駅伝1区、沿道から「おまえら、歩くな!」とヤジが飛ぶほどの超スローペースに、合田椋は「よし、きた!」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Shun Sato

【このままでは箱根を走れずに終わる】

 1年目から箱根駅伝で活躍する。そんな野望を持って拓大に進学した。ところが、そこでは思い描いていたような競技生活を送れなかった。

「生活面を含めた(自分の)意識のゆるみが出て、最初の2年間はまったく結果を出せませんでした」

 高校時代は寮生活で、監督の指導のもと、練習はもちろん、生活面も厳しく管理されていたという。間食は禁止。消灯は22時で、その30分前には携帯電話を預けなければならなかった。

「自分で望んだとはいえ、高校3年間で休みがほとんどなく、プライベートの時間も限りなく少なかったです。陸上だけに集中する修行僧みたいな生活です。その反動が大学で出てしまって......」

 厳しく管理された高校時代とは打って変わって、拓大ではポイント練習以外の練習メニューは個人にまかされ、ジョグのペースも距離もどうするかは自分次第。生活面も同様だ。そんななかで合田は、間食が増え、セルフケアもほとんどやらなくなった。

 その結果、ケガが増え、記録を出すことができなかった。自分をコントロールしなければいけないとわかっているのに、自己管理を徹底することができなかった。1年時も2年時も箱根駅伝のエントリーメンバーには入れず、モヤモヤとした気持ちを抱え、「退部して地元に帰ろうかな」と思うことも何度かあった。

 だが、転機は3年時に訪れた。

「夏前に『このままでは箱根を走れずに陸上(競技人生)が終わる。普通に就職することになる』と気づいたんです。遅すぎますよね。当時は新型コロナウイルスが流行していて、実家に戻る部員が多かった期間も、自分は寮に残って単独で練習を重ねました。ただ、それまで練習も食事も疎かにしていたせいか、同期との差は簡単には埋まりません。(10月の)箱根予選会のメンバーからも落ちて、震えるような危機感を覚えました」

 予選会のメンバー落選で尻に火がついた合田は、それから「死ぬ気で練習をやった」という。徐々に調子を上げ、11月中旬の記録会では10000mで初の28分台(285872)をマークし、自己ベストを40秒以上も更新した。留学生を除けば、チームで2番目の持ちタイムだった。

「夏前から継続して取り組んできたことがようやく花開いた感じだったのですが、(自分の手応え以上に)周囲の見る目がすごく変わりましたね。『おまえ、こんなに走れるんだ』って。勝負の世界なので、結果を出せば、自分の見られ方も変わるとわかっていたつもりでしたが、正直、こんなにも変わるのかと(苦笑)」

 これまでは監督やコーチになかなか評価されなかったが、ようやく認めてもらえたような気がしてうれしかったという。そして、ほどなく吉報が届いた。

「(箱根の)1区を走るように言われたのは12月上旬です。自分も『1区、行きたいです』と監督に伝えていましたので、願いがかないました。1区は小さい頃からのあこがれでした。(東海大の)佐藤悠基さん(現SGホールディングス)、(早稲田大の)大迫傑さん(現リーニン)、(青山学院大の)久保田和真さん(引退)といった方々が1区で区間賞を獲って、トップで襷を渡すシーンがすごく印象に残っていて、自分も同じように走りたいと思っていたんです」

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