伝説のシューズ職人・三村仁司が語る
「マラソン五輪メダルの裏側」 (2ページ目)
さらに外国勢でも、88年ソウル五輪女子優勝のロサ・モタ(ポルトガル)や92年バルセロナ男子優勝の黄永祚(ファン・ヨンジョ/韓国)、04年アテネ男子優勝のステファノ・バルディーニ(イタリア)のシューズも担当。来月のリオデジャネイロ五輪日本代表も、男女6名中4名が三村氏のシューズを履いてレースに臨む。
少し三村氏のキャリアを振り返ってみたい。
シューズ作りを志したのは、陸上の長距離をやっていた高校時代だった。当時のランニングシューズは質が悪いものが多く、すぐ破れたりしてダメになった。素直に「いいシューズを作りたい」という思いで、アシックスの前身であるオニツカへ入社したのだ。
「研究室を志望していたんですが、最初は手作業でシューズを作る製造課に配属されて、製造現場をひと通り経験しました。その間も会社の陸上部に入って走っていたので、余った素材で自分が使うシューズを作って、走ったりもしていました」
5年ほどして研究室に異動となる。その頃はソールがゴムから他の素材に変わる時期だった。さらに社長がトップ選手のための特注部門を作ることを提案し、その役割を果たす人材として三村が指名されたのだ。
「最初に任されたのが、自分もやっていたマラソンだったのが幸運でした」
当時のトップ選手は君原健二や寺沢徹、宇佐美彰朗、佐々木精一郎などで、三村からすれば、みな憧れの選手。合宿地などへ出かけて、直接使い心地や問題点などを指摘してもらい、彼らの要望に沿うように靴を作った。
「当時は技術もなかったので、言われるがままにやっていた。特注部門といっても最初は自分ひとりだけの部署で、縫製だけは縫製部門に頼んでやってもらいましたが、アッパー(靴の底を除いた部分)のデザインやパーツの裁断、ソールの張り合わせなどの作業はすべてひとり。1日1足仕上げるのが精一杯でした」
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