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伝説のシューズ職人・三村仁司が語る
「マラソン五輪メダルの裏側」 (3ページ目)

  • 折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi  杉原照夫●写真 photo by Sugihara Teruo

 そんな日々の作業に追われる中で、三村は疑問に感じる部分が出てきた。

「当時のマラソン選手はメチャクチャきつい靴を履いていて、寺沢さんは皮のアッパーでピチピチだったから外反母趾になっていた。それに君原さんは、綿のアッパーの靴で親指のところに最初から穴を開けていたんです。それを不思議に思って聞いたら、走っているうちに足がきつくなるからだと。

 後でわかったことだけど、走り出して15分くらいすると靴の中の温度が上がり始め、45分で最高になる。それで靴の中の足も蒸れて大きくなるんです。そのうえ、綿のアッパーは汗などで濡れると縮むから余計きつくなって、最後はどの選手も腰が引けたような走りになっていたんです」

 それがわかってからは、選手にはサイズの余裕があるシューズを薦めるようになった。寺沢からは後に「あの当時に三村さんが言うような靴を履いていたら、もっと走れたな」と言われたという。

 1978年2月の別府大分毎日マラソンでは、スピードが出やすくなるようにと、スポンジのソールを薄くし、接地面にゴムを使ったシューズを試作。それを履いた宗茂が、世界で2人目のサブ10となる、2時間09分05秒の日本最高記録を出したことも大きな自信になった。

「それからは選手にもソールの薄い靴を薦めるようになり、他より軽くてスピードが出ることをテーマにしました」

 そのシューズが瀬古利彦や宗兄弟などが活躍する日本男子マラソン最強時代を支えただけでなく、海外のトップランナーからも注目されるようになった。

 1984年ロス五輪の2年ほど前からは、フェンシングやボクシングなど他競技のシューズも多く手がけるようになり。レパートリーを広げた。さらにマラソンシューズに関しても、五輪が夏に開催されることで暑さ対策も求められるようになった。

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