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【競輪】トップ9からの陥落に「ふがいない1年」と語る清水裕友 その裏にあった病と意識改革を決意させた太田海也とのレース (2ページ目)

  • text by Sportiva

清水の礎を築いた防府競輪場。この場所で研さんの日々を過ごしてきた photo by Ikeda Seitaro清水の礎を築いた防府競輪場。この場所で研さんの日々を過ごしてきた photo by Ikeda Seitaroこの記事に関連する写真を見る

【高1での全国制覇に「いいの?」】

 防府競輪場のある山口県防府市で育った清水が最初に自転車競技に触れたのは、小学4年生の時。同競輪場で開催された自転車教室への参加だった。2011年に山口国体が開催されることもあって、県全体にスポーツの機運が高まっていた頃のことだった。

「バンクで走った時にはすごくスピードが出て楽しいと思いました。そのままクラブに入って、そこで競輪選手という職業を知りました。いろいろ調べてみたら興味が湧いて、すぐに競輪選手になろうと思いました」

 清水はこれをきっかけに山口県ジュニアサイクルスポーツクラブに入会。そこから競輪を観戦するようになり、小学6年の時には当時からトップ選手として活躍していた佐藤慎太郎(福島・78期)の大ファンになっていた。

「(佐藤選手が)GⅡのレースのために防府に来られた時に出待ちをして手紙を渡しました。『将来、前を走れるようにがんばります』と書いて。その時に握手してもらったんですが、その手がすごく柔らかかったことをめちゃくちゃ鮮明に覚えています」

 憧れていた選手との触れ合いは、清水の競輪愛をさらに加速させ、中学2年の時にはそれまで継続していた柔道を辞め、自転車競技に専念することにした。「平日でも競輪場を使わせてもらい、高校生と一緒に練習していた」というように恵まれた環境で自転車漬けの日々を送り、めきめきと力をつけていった。

 中学時代の積み重ねもあり、高校から自転車競技部に入ると1年生にも関わらずいきなりインターハイのケイリンで優勝してしまう。本人も「いいの?」と驚きの結果だった。

 高校2年で迎えた山口国体のケイリンでは2位に入るなど、その後も好成績を出し続け、3年時にはアジアジュニア自転車競技大会のケイリンで2位、チームスプリントで優勝。ジュニア世界選手権にも出場するなど、将来を有望視される選手へと成長した。

 高校卒業後に競輪学校(現日本競輪選手養成所)に入学し、在校成績4位で卒業。2014年7月、19歳の時に念願の競輪選手としてデビューを果たした。

 競輪が身近にあった環境、そして国体という時流に乗り、清水はなるべくして競輪選手になったと言っても過言ではない。

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