競輪・深谷知広が「40歳で引退」と語る真意 若手ともがいた今夏の練習で芽生えたある心境とは (3ページ目)
【国際大会で好成績連発も】
深谷は前述のように高校からジュニアのナショナルチームに所属していたが、そのまま上のカテゴリーの一員として国際大会にも出場するようになっていた。競輪デビュー後も1年ほど活動していたが、自身の成長を考えていったん区切りをつけ、競輪一本に集中していた。
しかし競輪での成績に陰りが見え始める。2014年までは好調を維持していたが、2015年以降、思ったような結果を残せなくなっていた。実力は依然上位クラスだったが、「自分は完全なトップ選手ではなくなった」。そう感じるようになっていた。
そんな折、東京オリンピックの足音が近づき、周囲でも話題にのぼることが多くなった。「自転車競技は好きで、レースや結果も見ていた」という深谷は、自身が低迷期に入っていることもあり、ナショナルチームの活動に興味を抱き始めた。
自分には刺激や変化が必要だ。ナショナルチームで何か自分にできることはないのか――。
そう考えた深谷はナショナルチームのトレーニングパートナー、いわゆる練習相手として競技に復帰することを決断した。ちなみに当時の短距離種目には、新田祐大(福島・90期)、脇本雄太(福井・94期)らが所属していた。練習相手としての参加ではあったものの、ナショナルチームの一員として国際大会にも出場するようになった。
「国際レースを走っているとやっぱり楽しかったです。国内の競輪だと上位のほうにいるので、『負けられない』と考えるレースのほうが多かったんですが、国際大会に行くと、最下位くらいなので、『負けられない』から『勝ちたい』という思いに変わったのがすごく新鮮でした」
自転車競技、競輪に情熱を傾けてきた深谷 photo by Gunki Hiroshiこの記事に関連する写真を見る
また体制が一新していたナショナルチームの指導にも大きな刺激を受けた。
「これまでは自分の持っている力の範囲内で練習しようとしていましたが、ブノワ・ベトゥ(短距離ヘッドコーチ)が来たことにより、全然違うフィールドの広さのトレーニングをするようになりました。負荷のかかり方がまったく違って、『こんな練習をしたら体が壊れちゃう』と思うような練習をしていました。その衝撃が一番大きかったですね」
限界のその先へ。練習は過酷を極めたが、意識は大きく変化した。ナショナルチームを離れた今、当時を振り返って、「あれがなかったらもう(自分の競輪人生は)本当に終わっていたと思う」というほどの強い影響を受けた。
深谷はトレーニングパートナーの立ち位置だったため、「(東京オリンピックには)出られない前提で走っていた」という。また短距離種目には主にケイリンとスプリントがあり、深谷はスプリント1本に絞っていたが、「選手選考ではメダルの可能性がケイリン、スプリントの両方にあった場合、ケイリンの選手を優先することになっていた」ため、東京オリンピック出場の可能性はもともと低かった。
ただ2019-2020シーズンのトラックワールドカップでは、スプリントで銀メダルをひとつ、銅メダルをふたつ、チームスプリントでは金メダルをふたつ獲得するなど目覚ましい活躍を見せた。
世界トップクラスの実力を示していたこともあり、東京大会で補欠選手となった時には「悔しい」と感じたが、同時に「出られるか出られないかの実力までいけたのはプラスだった」と満足感も抱いていた。
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