小平奈緒の駆け抜けた競技人生。「記憶に残る大会は?」の問いに「次のレースが最高のレースになる」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

北京五輪ではジョギングもできない状態

 小平がこの決意を語るのに先立ち、これまで指導してきた結城コーチは、五輪シーズンをこう総括した。

「北京五輪は残念な結果となったが、(昨年の)春から秋にかけてはほぼ思いどおりのトレーニングができ、左股関節の違和感もほぼ解消されて本来の動きに近いものができるようになっていた。W杯前半戦も500mと1000mは全レース出場し、表彰台にもほぼ毎回上がれる状況で過ごし、ここからエネルギーを溜めていけば五輪でもいい勝負ができるなと思っていた矢先の捻挫だった。W杯ファイナルもまだ痛みがあるなかだったが、オランダに行った時に一緒に練習をしたイレイン・ブスト選手の引退レースということもあり、本人の希望で出場し、初日の500mは3位になって表彰台に上がった。結果的に北京五輪以外の国際レースではほぼ全大会で表彰台に上がったので、いいシーズンだったかなと思っています」

 北京五輪のために現地入りした時は、陸上でのジョギングもできない状態だった。滑走はできて、1周25秒台のトップクラスのラップでは滑れるが、スタートのために右足を決めるとしゃがむこともできず、体を静止させることもできなかった。結城自身、本番のスタートラインに立てないのではないかと思い、「スケートの神は前回のチャンピオンだった小平に、何を試させたいのだろう」とさえ思った。

 氷上練習を始めてから、構えを逆にしたり手をついた3点スタートも試したりするなか、男子の構えにヒントを得てスタートの構えができるようになった。だが500mのレース当日の氷上アップの時、小平から「靴の中の違和感をもう少し少なくしてレースに臨みたい」と申し出があり、数本していたテーピングのうちの1本を外してレースに出た。「でも、それが命綱の1本だった。レース後に小平はスタートで左足が出なかったと言ったが、それは右足が押さえられなかったから。1000mは従来のテーピングにしたことで、本来のタイムではないが、中国選手に競り勝つレースができた」と話す。

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