【女子プロレス】アイドル、大食い、そしてプロレスの世界へ 上原わかなが「負けたくない」執念でつかんだ輝く場所 (2ページ目)
私が興奮気味に「『夢プロレス』の時から応援していました」「アジャ選手とのシングルは泣けた」「太ももの太さばかりフィーチャーされて憤りを感じる」と矢継ぎ早に言うと、上原は少し困ったように、けれど嬉しそうに笑い、「優しいんですね」と控えめに答えた。
鈴芽(左)に技をかける上原(写真提供/東京女子プロレス)
1996年、上原は神奈川県海老名市に生まれた。父と母は研究者同士で、研究所で出会い結婚。父はやがて大学教授に、母は専業主婦となった。3歳上の姉は銀行員。親族も堅実な職業に就く人が多く、上原も幼い頃から厳しく育てられた。
2歳でピアノを始め、バレエ、水泳、英会話......と習いごと漬けの日々。だが、それは両親に押しつけられたものではない。本人が自ら望んでやりたがったのだ。根っからの負けず嫌いで、タイムが数値で出る水泳にはとくに夢中になった。週7回プールに通ったこともある。
そんな負けず嫌いの彼女だが、デビュー1年目は控室で泣かなかった日はなかったという。
「とにかく人に負けたくないし、自分にも負けたくない。プロレスの試合後も、どんなに先輩に褒められても、『もっとあの技、こうやって掛けられたのに』とか、納得できないと悔しくて」
中学受験を経て、中高一貫の東京農業大学第一高等学校中等部に進学。偏差値70前後の難関校に合格したのは、算数と理科という得意分野を武器にしたからだ。夢中になったらストイックに突き進む。そんな気質は、この頃から一貫している。
小学生時代は、男の子と木登りをしてスカートを破って帰るような活発な子。女の子らしい遊びにはほとんど興味を示さなかった。しかし中学に入ってテレビが解禁され、ブラウン管のなかで歌って踊るアイドルに衝撃を受ける。"可愛い女の子"への憧れが芽生えた。
ももいろクローバーZのコピーグループを結成し、文化祭でダンスを披露。先輩や後輩からサインや写真を求められるほどの人気者となった。そんな華やかさの裏で、嫌がらせを受けることもあった。
中高6年間、チアリーディング部に所属。スクールカースト上位が集まる部活だけに、選抜入りをめぐる争いは苛烈で、お弁当を食べている時に仲間に囲まれ、罵詈雑言を浴びせられたのだ。
それでも彼女は屈しなかった。根っからの負けず嫌いゆえに、選抜入りを果たすため体操教室にも通い始める。そして高校3年の時、団体で全国3位という結果を手にした。
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