摂食障害を乗り越え24歳で初五輪 "遅咲きのスケーター"鈴木明子がバンクーバーで流した涙の理由
連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第7回 鈴木明子 前編(全2回)
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会〜2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。
第7回は、2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会と五輪2大会連続出場を果たした鈴木明子の軌跡を振り返る。前編は、摂食障害を乗り越えて初の五輪出場を決めるまでの道のりについて。
2010年バンクーバー五輪のフリー演技後、涙を流した鈴木明子 photo by Kyodo News
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【次世代のホープがぶつかった壁】
2度の五輪と4度の世界選手権出場という実績を残した鈴木明子。彼女がシニアの国際舞台で結果を出し始めたのは、23歳になった2008−2009シーズンからだった。そんな遅咲きの競技人生には理由があったーー。
中学1年だった1997年、第1回全日本ノービス選手権Aで3位になると、翌1998年は全日本ジュニア選手権で3位に入り、2000年は同大会で2位。ジュニアGPシリーズでは2001−2002シーズンに日本大会で優勝してジュニアGPファイナルに進出すると、3位となり表彰台に上がる。全日本選手権も前年に続く4位で四大陸選手権にも出場と、次世代を担う選手として期待されていた。
だが、2003年に大学入学とともに仙台へ拠点を移すと、環境の変化で摂食障害となりシーズンを全休。2004−2005シーズンに復帰したものの、全日本選手権では10位台と足踏みが続いた。
それでも2007−2008シーズンには国際大会で2勝し、全日本は5位と復活の気配を見せ、翌2008−2009は、フィンランディア杯で優勝。GPシリーズ初出場となったNHK杯では、2位になる。1位は浅田真央で3位は中野友加里、さらに男子とともに初の日本勢表彰台独占を果たした。
さらにその年の全日本は4位になると、7年ぶりの出場となった四大陸選手権は8位と日本女子の主力としての足固めをした。
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著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

