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ハルク・ホーガンは「でくの坊」からスーパースターへ 元東スポ記者が語る「イチバン」誕生秘話とアントニオ猪木の教え (4ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

 私は1980年代半ばに、ツアーでアメリカのいたるところに取材に行きました。当時はWWFが全米進出を進めていましたが、まだ寛容な時代で、バックステージにも入ることができたんです。ある試合前に、各選手が血圧検査などドクターチェックを行なっていて、血圧を測っているホーガンの写真を撮ったんです。その横顔が疲れていて、「スーパースターのホーガンも疲れるんだな」と感じましたね(笑)。アメリカは移動も大変ですから。

――ホーガンは新日本プロレスにも継続して出ていましたが、1985年10月に新日本プロレスとWWFの提携が解消され、しばらく来日できませんでしたね。

柴田:1985年6月に、愛知県体育館で猪木さんのIWGP王座に挑戦したばかりでしたね。次に新日本プロレスのリングに上がったのは1993年5月。福岡ドームでグレート・ムタと対戦しました。

 当時、新日本プロレスはWCWと提携していましたから、現役WWF世界ヘビー級王者だったホーガンの出場はあり得ないことでした。その後もホーガンはアメリカで活躍しましたが、あの試合に出たのは、どこかで日本に"里帰り"したい気持ちがあったのかもしれませんね。

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー

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